何でもないようなことの幸せさ~

何でもないようなことの幸せさ~

2018.11.28

高橋ジョージさんじゃありませんが、過去の「なんでもないようなことが幸せだった

と思う!」

つくづくそう思える今日この頃であります。普通であることがどれだけ幸せであるか、

痛感しております。

わたしの毎日の仕事は、責任を背負っていますので大変ですが、わたしは仕事において

”心が折れた”ことはありません。よく若者たちが”心が折れる”と安易に口にするのを

耳にすることがありますが、その大半はたいしたことありません。イチロー選手が言う

”心が折れた”には重みがあります、想像を絶する努力をされているからです。

ただ、今、認知症の家族をかかえており、毎日の介護において”心が折れる”ことが

数えきれないぐらいあります。意志の疎通がとれないので当然ですが、これも想像を絶する

大変さです。認知症の患者さんを持った人にしか分からないとおもいます。

介護を5年半ほど続けて、座右に置いているのが、「今を一所懸命生きる」ことです。

過去の元氣だった頃のことを回想して「あのころはよかった、なんでこんなになってしまったのか・・」

と想ったところでどうにもなりません。

これからも続く明日以降のことを考えても重圧、大変さに潰されてしまいます。

お釈迦様も仰っているように「過去・未来を見るな、今を生きよ!」

わたしも後先見ずに、今現在を一所懸命努力し、生きたいとおもっております。

散るもみじ

2018.11.2

家内の介護やらでなかなかコラムにまで手が回らずご無沙汰をしておりました。

今日は連休前で少し時間にゆとりがあり、書いてみようとおもいました。

今日も我が玄侑さんの「死んだらどうなるの?」の中から抜粋させていただきました。

”散るもみじ”はこの書のサマリーのような内容になっております。

 

死は日常のなかに見つめ、自分に見える現実を絶対化せず、しかしある種の連続性を信じて

精一杯生きる。そして瞑想という脳の使い方も忘れない。なんだかこんな結論になってしまった

けれど、ご不満だろうか。

ご不満でもこの際は仕方ない。

え?どうやって死んだらいいのか?

それは私に与えられたテーマ外だ。そんな心配しなくたって、大丈夫、死ぬ時節がくれば

ちゃんと死ぬ。良寛和尚もおっしゃってたではないか。「災難に逢うときは時節には災難に逢うが

よく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。」と。

それに、人は死に方を選べない。なんだか最近は、欧米を中心に、個人の権利として自分らしく

死ぬ権利まで主張され、安楽死、尊厳死と賑やかだが、だいたい「自分らしく」なんていう思い込みは

瞑想という脳の使い方を知らないから起こるのである。大脳皮質の言語脳の考えることを奉りすぎている

にすぎない。

自分らしい、というのは本当はもっと深い事態だ。本当に自分らしくなるというのは、自分らしく

なくなることでもある。あ、また知性を超えてしまった。

ともあれ、死ぬ前にはきっと、思ってもみなかった自分に出逢うことで本当に自分らしくなるのでは

ないかと、私は期待している。しかし思ってもみなかった自分があまりに強烈で多数だと、昏睡

状態に陥るとアーノルド・ミンデルは言うから、なるべく普段から、思ってもみない自分と出逢っておきたい

と思う。それには、「自分はこういう人間だから」なんて決め込まないで、ご縁に応じてなんでもすること

だろう。

しかしたぶん、そんなふうに生きていっても、そうしても自分ではわからなかった自分に、死の間際には

出逢えるのではないだろうか。

良寛和尚は好感をもっていた30歳以上も年下の貞心尼に看取られ、下痢の世話までしてもらいながら

最期の時「うらを見せおもても見せて散るもみじ」と詠んだ。深読みかもしれないが、見せた「うら」

というのは、けっして下痢がやまず苦しい自分ばかりではなかったはずである。なんといっても散るのは

美しい紅葉なのだ。晩年に貞心尼を愛することで初めて知った自分もあっただろう。そして最期にモーロー

トシ、夢か現かわからないなかで感じ取った自分ならぬ自分もあったのではないだろうか。

ともあれ、それはそのときのお楽しみ。

お互い、死ぬまで元気に生きましょう。

 

わたしも死ぬ間際に、思ってもみなかった自分に出逢うことを楽しみにしているし、それによって

本当に自分らしくなれることも待ち望んでいます!

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