本来無一物の安心

本来無一物の安心

2017.07.22

(「生と死」の21世紀宣言)の中から、倫理学者の竹内整一さんのお言葉を引用させていただきました。

 

近代日本の初発をリードした一人に福沢諭吉がいます。彼の晩年に、「人間の安心」ということを

述べた文章があります。その中で福沢はこう言っております。

「この宇宙無辺の中で地球などというものは大きな海に浮かんでいる芥子粒ほどもない小さなものだ。

ましてや人間などというものは、その小さな芥子粒の上に生まれ、そして死んでいく無知無力、見る影も

なき蛆虫同様の小動物なのであって、石火電光の瞬間、偶然この世に生まれ呼吸し食べ眠り、また喜んだり

悲しんだりしながら、あたかも夢を見てその夢が覚めたら何も残っていない」

だから人間がいろいろあくせくしているのは浅ましくもおかしいことではあるけれども、生まれ出た以上は

何か覚悟を持たなければならない。その覚悟は何かというと、蛆虫なれども、戯れなれども、それを引き受けて

あたかも真面目に努めていく、一生懸命やってみるということだ。「人間の安心」法は、大体そのへんにある、と。

ちょっとわかりにくいのですが、違うところで、「本来無一物の安心」などという言い方もしています。

本来何ひとつ持って来なかったし、何ひとつ持っていけないのだから、何を失くしても安心だということです。

慶応義塾は彼にとって大事な心血を注いだ事業です。でも、こんなものはもともとなかったし、いずれまた

なくなる。そう思っていたから自分は気が楽で、いろんな駆け引きもできたし活発にやることができ、

うまくいったのだとも言っています。

こういう人間認識は、啓蒙家の福沢には少し意外ですが、しかし、福沢は、そういう人間観を持つことによって、

むしろ逆にそこに、安心、あるいは活発さ、さらに言えば、それを引き受けて生きることができるところに

人間の尊さがあるのだと論理をひっくり返して説いているわけです。

 

わたしも文字通り、本来無一物からゼロからスタートした事業でありますので、ゼロになって終われれば

いいと考えております。ただ、その内容は心血を注いだものでないといけません。人のためになる仕事を

しなければなりません。そしてゼロで終わっていければ私の人生は幸せであった、ものを思われます。

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