死んだら「私」はどうなるの?

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死んだら「私」はどうなるの?

2016.08.31

今日は玄侑さんの著「やがて死ぬけしき」から抜粋させていただきました。

 

死後、私というまとまりははたしてあるのだろうか。これはたいへん意見が分かれる点です。

死後のあれこれの中で、このことがいちばん気になるという方も多いのではないかと思います。

これについて、かって柳田國男と折口信夫のあいだに大論争がありました。柳田國男は死後も

個人というまとまりを保っていると考えました。しかし折口信夫はどちらかというと老荘思想

に近い考え方ですが、死後は集団化・集合化する、個性というまとまりはもたない、と

考えました。このへんの考え方の違いで死後のいろいろな見方が生まれてくるのだと思います。

私としては、「私」というまとまりのまま死後にも存在するのだとしたら、成仏していないのではないか

と見ます。成仏、つまり「仏に成る」わけですが、「ほとけ」という和語じたいが「ほどける」に

由来すると思われます。神は結ぶもの、発生するというのは結ぶということです。結んだものは

ほどけます。そうすると、いったんほどけてから集合体になるという考え方のほうが自然な

ような気もします。あるいはほどけてエッセンスに分かれる、というのもアリかもしれません。

しかし一方で、死んだあとまで個性を保っていてほしいという考え方が生まれるのもわかります。

柳田國男にすれば、人は死んでも浄土のような遠い場所に行ってしまうのはなくて、あくまで

「あの人」のまま、そのあたりにうろうろしているのですね。それが民衆の感情に近いという

わけです。

一方の折口信夫の考え方は、むしろ民衆の感情の先にある宗教的認識のようにも思えます。

たとえば沖縄のニライカナイのような場所での在り方を追求した結果ではないでしょうか。死んでから

行く場所は、生まれる前にいた場所にも思えます。

 

皆様も死後の世界を考えたことはおありだとおもいますが、宇宙の果てを想像するよりも

死後の世界は難しいようです。

日本人は無宗教と言われていますが、葬式や法事はせっせとやります。ということはとりもなおさず

魂の存在を信じているからなのでしょう。そして日本は例外を除き、火葬です。ということは

死んだら魂は身体からはなれているので身体はもういらないということでしょう。

この状況からするとインドの輪廻思想が一番正しいのかもしれませんね。ただその魂の乗っかかり方が

問題で柳田國男さんのような「まとまり」で乗っかかるのか、玄侑さんが仰るようにエッセンスに

分かれて乗っかかるのか、それはわたしにも想像がつきません・・

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