老いによる喪失は、逃れようのない自然

最近の記事

月別アーカイブ

院内紹介

老いによる喪失は、逃れようのない自然

2016.06.30

今月も我が玄侑さんの著「ないがままで生きる」より抜粋させていtだきました。

 

禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師」と呼ぶ。なかには二十代、三十代からそう

呼ばれる人もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」である。

なにゆえここに「老」という文字を使うのか、考えてみよう。

仏教は人生上の苦しみを、「生・老・病・死」と分類した。生まれること、老いること

病むこと、死ぬことである。

一方、人だけでないあらゆる物の発生から死滅までの変化は、「成・住・壊・空」と

表現される。発生、継続、喪失、そして空っぽ、ということになるだろうか。

ところで「老」とは、後者の区分では「住」に当たり、生き続けている状態のことである。

生き続けていると、いろんなことが起こるわけだが、「老」は単独では意識しにくい。

昔から、老人の年齢規定は、五十五歳、六十歳、六十五歳と恣意的に変更されてきた。

つまり年齢そのもので「老」は定義できず、大抵は、「病」や「死」を垣間見ることで

ついでのように「老」が意識される。ある種の喪失体験として「老」は認識される、

と考えたほうがいいだろう。

 

目はかすむ 耳に蝉鳴く 歯は落ちる 雪を戴く 老の暮哉

 

ずいぶんひどい歌だが、事実だから仕方がない。

要するに人は、若い頃に獲得してきたものを「老」とともにどんどん喪失していく。

それは逃れようのない「自然」である。

gototop西脇眼科
なかお眼科 兵庫県西脇市蒲江321-1 TEL.0795-25-2323