荘子ー言葉の限界

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荘子ー言葉の限界

2015.07.16

荘子は、反:孔子、親:老子のスタンスの、言葉を駆使した論客だと思っていましたが、

そうではなかったようです。

 

玄侑さん著「荘子と遊ぶ」を読んでいまして、あらたなことがわかりました。

 

荘子の九割は「寓言」つまり他事にことよせて書かれた物語で、七割は「重言」これは古人の言葉を

借りて重みをつけた話。そして残りはみな、し言、つまり底の丸い盃が注がれた酒の量に従って

自在に傾くように、相手の出方次第で臨機応変に対応していく言葉だという。単純に計算すれば

分かるが九割と七割とその残り、というのは重なり合ってこそ可能な数字である。

中略

こうして寓言、重言、し言と並べてみると、荘子がいかに論争など望んでいないかが分かる。

重言の説明として「言を己むる所以なり」とあることからも判るように、言そのものが議論や論争の

素と捉えられている。「言わざれば則ち斉し」いのに、それが斉しいと言葉で説明されると斉く

なくなってしまう。言葉そのものに斉しさを離れる性質があるというのだ。寓言や重言やし言とは

言葉のもつそのような本質的欠陥を、なんとか最小限にするための方法論だといえるだろう。

言葉というものには、どうしても主観が混じる。「自ること有りて可とし、自ること有りて不可とす。」

と荘子は云うが、つまりどんな判断も、自分なりの勝手な理由で可否を決めて言明する。だから

荘子は、主観的な表現をできるかぎり避けたのである。これが「荘子」における表現の基本的な

スタンスと云えるだろう。

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