諸行無常

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諸行無常

2013.11.30

尊敬する南僧の言葉より。

 

私たちは選択の自由があって生まれてきたわけではないし、死ぬのに理由を教えてもらえるわけでもない。

それは単なる事実として、無根拠にこの世に炸裂する事実、すまわち「問い」である。

始めと終わりに根拠がないのに、中間にそれがある道理もない。ならば、人生は全体として、

それ自体、無根拠で無意味である。我々は、意味や価値があって生きているのではなく、

生きていることが意味や価値をつくることなのだ。これを称して仏教では、「諸行無常」と言う、

のだと私は思う。

 

こうしなければならないと、最初から決まっていることなど、この世にひとつもない。だが、

しなければならないことを自ら発見できない人生は、おそらく寂しいだろう。

根拠が欠けている人生に向かって、「何故に生きるか」と問うても無駄だ。根拠は

つくり出すものだとするならば、「諸行無常」への問いは「何故に生きるか」である。

不可能であるゆえの誓い

2013.11.24

今日も玄侑さんの言葉の中から。

 

どうして命が大切で、なにゆえ殺生がいけないことなのか、それを理詰めで

教育しようとする風潮が今の世の中にはあるが、おそらくそれは無駄なことなのだ。

理詰めで進める限り、どんな意見にも必ず反対意見がありえるからである。

思えば完全に受け身で産み落とされた我々の命。そのままでは大切にすべき理由は

見当たらない。しかしそんな命を大切なものとして慈しみ育ててくれた人々がいた。

そのことで、感覚的に大切そうな命と感じる人々は多いだろう。

それでも同じような体験を全ての人が共有できる世の中ではないから、今は尚更

誓いこそが大切なのである。

不殺生戒が仏教発生以来ずっと変わらず続いてきたのは、それが結局は遵守不可能で

あるからだ。律儀なドイツ人の仏教会は、不殺生戒だけを除いて仏教を受け容れると宣言

したことがあるらしいが、不殺生戒を字義どおりに受けとめれば無理もないことだ。仏教は

動物も植物も対等の命と認め、家畜などという手前勝手な考え方もしないから、今日一日を

生き延びるためにさえ無数の殺生をしなくてはならない。そのことを自覚して懺悔し、不殺生を

誓いつづけるのである。

ではそれほど実現不可能な戒をどうして立てるのか、不思議に思う方もいるに違いない。

しかしそれはあまりに合理性に慣れすぎた考え方と云えるだろう。実現不可能であるからこそ

、戒は永遠のものとなる。不偸盗戒(盗むな)も不淫戒(交わるな)も不妄語戒(ウソつくな)も、

つきつめれば完璧な成就が不可能であるゆえに永遠の誓いなのではないか。

自分の心次第

2013.11.19

相田みつをさんの語録集より。

 

「しあわせはいつも自分のこころがきめる」

 

お釈迦様も仰っているように、人生は苦の連続ですが

幸と感じるか不幸と感じるかは、自分の心次第だとおもいます。

 

枯れる

2013.11.6

人間に置き換えても、若いときは、わが身の欲望に振り回されることが多いでしょう。

それは夏の鬱蒼とした木のようなもので、枝が伸びて葉っぱが繁って収拾しきれなく

なってしまう状態です。それで鬱になったりもするわけです。「鬱」という字はもともと植物が

繁茂している状態のことです。

今まで邪魔にしてきたものさえ驚くばかりの美しさを見せるようになるのは

秋になって余計なものをだんだん捨ててわが身を使いこなせるようになるからでは

ないでしょうか。

だんだん枯れていくことをよしとする価値観が今、見当たらなくなりつつあります。

それでは紅葉しないんですね。変化しない造花と同じです。

私たちにとってほんとうに身についているものとは、葉っぱが散って残る木の

幹や枝のようなものです。つまり、葉っぱが枯れて幹だけになってもいいわけです。

それが、晩年の人間の姿じゃないでしょうか。

 

玄侑先生はこのように仰っています。

私も同感です。今はやりのアンチエイジングや不老長寿ということには

全く価値観を覚えません。

歳相応に枯れて死んでいく、これほど美しいものはないと、思います。

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