「天寿」と「夭折」

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「天寿」と「夭折」

2019.07.6

今日も我が玄侑さんの書「やがて死ぬけしき」から抜粋させていただきました。

 

普段のお通夜などでは、私は五十歳以上なら「天寿」と思ってほしいと話します。それより

若ければ「夭折」です。

しかし地震や津波による死は、たとえ充分に年をとっていたとしても「老折」と言いたい

「折られた」印象が残ります。「夭折」だけでなく「中折」や「老折」だってあるじゃないか、

と言いたくなります。以前私は死を蛙にたとえ、いきなり熱湯に入れるようなものじゃないと

申しましたが、津波による死者は例外的にそんな印象さえあります。

しかし相手が自然なら、それは「天寿」なのです。五十歳すぎての病気も、その意味では

「自然」と見ますから、「天寿」なんですね。あえてそう思うことで、人は少しでも

悲しみを薄めていけるのでしょう。「天寿」や「天命」とは、悲しみから這い上がるために

人間が絞りだすように産みだした言葉なのだと思います。

あらためて、死とは何か

2019.06.14

今日は久しぶりに我が玄侑さんの書「死んだらどうなるの?」から抜粋させていただきました。

 

死によって起こることは、基本的にはからだが有機物に分解されて自然に還ることだった。

問題なのは、その際に「魂」がどうなるのか、ということだが、それについてはほとんどの

民族が、古来死後も永続する何かを想定してきた、と紹介してきた。いや、それが「魂」

だと言っていいだろう。

東洋的な循環型、そしてアブラハムの宗教における直線型。仏教の場合は、じつは輪廻転生

というインド独特の風土に芽生えながらも、お釈迦様が輪廻を断ち切れると宣言したせいか

そこには直線型の極楽浄土が登場してくる。直線型とは、つまり来たところに還るのでは

なく、初めて行く場所が来世と考えられている場合である。

しかし、仏教が提案した浄土も日本では古来の循環型に変形し、「あの世」となって

定着するのだった。いわば自然に還るという実感が、新興の仏教概念を抱き込んで

しまった形だろう。

そのほかにも我々の中にはさまざまな概念や実感が蓄積されてきている。山や海や

月のかなたの「あの世」を書いたのも、阿頼耶識(または遺伝子)に蓄積された奥深い

記憶を呼び覚ますためだ。そういて蓄積された深い意識(または心)の諸傾向が、今度は

我々の見るもの聞くことにも作用する。なぜなら我々の脳は、夥しい記憶を抱えた同じ場所で

思考もする。受け止めた知覚の処理もする。そこにはどうしても蓄積された意識の傾向が

影響してしまうだろうと、私は述べた。デヴィッド・ボームも言うように、我々は

探しているものを見るし、聞いてしまうのである。

それはまるで、観測者がいないときは波として存在し、観測するという行為によって

初めて粒子の姿を見せる光や素粒子の性質そのもののようだ。大胆に言ってしまえば

「あの世」も「魂」も、だから「ある」か「ない」かと考える対象ではなく、あなたとの

相互的な関係性のなかで起きる「できごと」なのである。

つまり「魂」も「あの世」も、「ある」といえるし「ない」ともいえる。また「ある」

わけでもないし「ない」わけでもない。ということだ。

 

今、我々が日常おこなっているお葬式や法事、お盆やお正月のお供えなどは、「魂」が

存在するという前提で慣習的に行われているものですが、このままやっていけばよいと

おもいます。お釈迦様は「自分」と「法」を拠りどころにしなさい、といわれましたが

わたしは個人的には、ご先祖様の「魂」も拠りどころにしてもいいんじゃないかと

おもっています。お墓詣り、大賛成です。

 

ノスタルジーもGWで終わりにしよう~

2019.05.5

人間だれしも挫折を味わうと、「なんでこんなことになってしまったのか」

「あの頃はよかったのに・・」と必ずおもいます。人間ですから。

わたしも家内が病気になってから、しばらくはそれを受け容れることができず

苦悩しましたが、日にち薬で最近は受け容れ、家内の病気にも上手に付き合うことが

できています。

GWは暇でしたので旧い写真をCDに焼いて、ノスタルジーに浸っておりました。

あの頃に戻りたいとおもうこともしばしばありますが、

GWが明ければ、懐古はしまっておいて、仕事に集中していきたい、

仕事と家内の介護を両立させて一日一日を一所懸命生きていきたいですね。

諸行無常はわかっているが辛いものです

2019.05.4

連休3日目、これといってすることもなく家内のおもりをしています。

旧い写真をCDに焼いては、旧き佳き時代を懐かしんでおります。

すこしずつ弱っていく家内をみていますと諸行無常を感じざるを得ませんが

なかなか辛いものがあります。

一日一日を一所懸命がんばっていくしかないようです

 

(京都で学会があったときに撮った写真です)

平成最後の火曜日

2019.04.30

通常、火曜日午後は手術をしておりますが、今日はGW中ですので

手術は休んでおります。

いつもフリーな時間は家内とお茶を飲みながらNHKをみています。

今日は平成→令和関連の報道ばかりですね。

平成の30年間、わたしは家内にお世話になりっぱなしで

迷惑のかけっぱなしでした。

 

昨日は昭和最後のころのわたしたち夫婦の写真でしたが、

これは平成最後に近いわたしたちです。

この頃には家内の病気は発症しておりました。

令和は平成以上に、家内の介護をしっかりやらなくてはならない

時代になりそうです。それが恩返しかと愚考しております。

一日でも長く生きてくれることを望んでおります。

 

平成はいかがでしたか?

2019.04.29

平成元年に結婚し、平成2年に長男、平成3年に二男が生まれました。

昭和は学生時代、独身時代で無責任極まりない時代でした。、

わたしにとって平成は責任が生じた時代でありました。

昭和に母親を亡くし、わたしも一皮むけたかとおもいましたが、家族をもつことのほうが

責任が重くなったようにおもわれます。

 

今、みなさまは平成最後のGWをすごしておられるとおもいます。

みなさまにとって平成はいかがでしたでしょうか?

来る令和という時代も戦争などなく、また平成で悪い意味で加速した市場経済原理や

利便性追求がすこしでも減るよう期待します。

慈愛などが追求される世の中であってほしいと考えます。

個人的には、仕事と家内の介護を両立させ、

微力ですが医療を通じて社会貢献させていただければ幸いであります。

 

昭和最後のGW頃の写真です。

 

 

玄侑宗久さんのすごさ

2019.04.18

今、満開の滝桜で有名な福島県は三春町の臨済宗福聚寺の住職である玄侑さん。

私は玄侑さんの書はすべて詠み尽くし、すべての書を3~4回繰り返し読んでおります。

 

最近、玄侑さん以外のお坊さんの書も読んでみたくなり、テレビでもお馴染みの

学僧で知られる、真宗本願寺派の釈徹宗さんの書を4冊買って読んでみました。

確かに仏教以外にも精通され頭の良いお坊さんですが、文章がやや難しいです。

すらすらと頭に入って来ない、わたしの理解力には敷居の高い書でした。

あと、曹洞宗の南直哉さんも賢僧でしられていますが、何冊かよみましたが、

専門用語も多く、非常にハイレベルでわたしの理解力を超えていました。

その点、玄侑さんは芥川賞作家だけあって、わたしのような者にも抵抗なく

頭に入ってくるような文章の流れで、引き込まれるような文章の構成がすばらしい。

仏教以外にも、医学、物理、化学、宇宙などにも精通され、それらに仏教を融合させ、

文章を組み立てておられ、非常にすばらしい作家&僧であるとおもいます。

玄侑さんは云わずと知れた臨済宗の禅僧でおられますが、禅=自力というハードな

イメージではなく、その著書は非常にソフトで頭に馴染みやすい。

私ら素人にも理解しやすい仏教書であると云えるとおもいます。

智慧を与えていただける書が多いと感じています。

 

皆様にも是非、玄侑さんの書を読んでいただきたいものです。

新元号?

2019.03.28

昭和に生まれ、独身生活、学生生活を過ごさせていただき

平成では家内と子供たちと幸せな生活を送らせていただきました。

私の年齢を考えると、わたしの人生も次の元号で最後かなとおもいます。

昨今、人間社会においても、動物社会においても虐待が大きな問題になっております。

わたしがおもうに、昭和の時代には、人々にはもっと慈しみの心があったように

おもいます。虐待などほとんどなかったようにおもいます。

全世界的に言えることですが、慈しみの心があれば、平和が保てますし、人々が

幸せを感じることができます。

ブータンではGNPよりもGNHをおもんじます。

わたし的には、「幸慈」という元号を望みます。

こういう元号でしたら、毎日が幸せな感じで過ごせるような気がしております・

 

あきらめさせない社会

2019.03.26

尊敬する臨済宗の玄侑さん以外にも、立派なお坊さんがおられました。

真宗本願寺派の釈徹宗さんです。玄侑さんにも劣らない博識の学僧です。

さっそく4冊の書を購入し、懸命に読んでおります。

釈さんの「いきなりはじめる仏教生活」の中から抜粋させていただきました。

 

効率良く進歩を目指す近代社会というシステムは、次第に自己目的化し、次から次へと

欲望を刺激し、かってはあきらめていたものをあきらめさせない社会を作り上げました。

あきらめさせないベクトルをもつ典型として、近代教育と近代医療があります。どちらも

「あきらめるな。あきらめない者にこそ奇跡は起こる」と叫びつづける装置です。

現在、この装置が露骨に顕在化しているのは、生命操作技術ですね。典型的なトピックス

として、「不妊治療」があります。なにしろ、現在の不妊治療は、「ストレスを少なくし、

生活のリズムを整える」「基礎体温から排卵日を特定する」といった初歩的なものから、

「排卵誘発剤」や「EDの治療」さらには「体外受精」や「顕微授精」、そして「精子バンク」・

「卵子バンク」・「代理母」、「非配偶者間人工授精」と続き、最後にはクローン技術さえ

あります。これがだめなら次、次がだめなら他の手技、とあきらめさせてくれないのです。

不妊治療の現場では、常に「あきらめるな」というメッセージが発せられているからです。

脳死による臓器移植という技術も同じです。そもそも臓器移植に直結可能な脳死者は、すごく

少ないのです。それに対して、臓器移植を希望する人はものすごく大勢います。つまり、

大部分の人が、「移植できる臓器さえあれば」というあきらめられない苦悩を抱えながら生を

全うしなければならないということです。

「あきらめるな」というメッセージのもと、需要者と供給者とが共犯関係的に次々とニーズに

応える技術を生み出します。「より優秀な子供を」という思いがデザイナーベビーへとつながり

「別れたくない」という思いがクローン・ペットを購入することとなるわけです。

どうしても「規格外の人生」はおくりたくないんでしょうね。

このような生命操作技術は、ある面では大きな喜びをもたらし、ある面では新しい苦悩を現出

します。しかし、ここで私たちは、そのような現象面ではなく、喜びや苦しみを生み出す

メカニズムへと視点を移さねばなりません。

 

わたしは「あきらめる」ことも大事だとおもっています。

お釈迦様が仰っているように、「執着」はよくない。

とくに人生の終わりに際して、未練を捨てる決断をすることは非常に大切だとおもっております。

「没蹤跡(もつしょうせき)」という生き方

2018.12.27

今年も最後のコラムになりました。

1年間、わたしのコラムをご覧になっていただき有難う御座いました。

最後はやはり、尊敬する我が玄侑さんの書「日本的」から抜粋させていただきました。

この「没蹤跡」という言葉、わたしが座右に置いている「今を生きる」に通ずる言葉だと

おもいます。

 

足跡を残さないとうことは、死後ばかりでなく、生きているうちから過去を引き摺らない

ことでもある。禅では、過去を引き摺ることを泥亀に喩える。泥だらけの亀は歩いた跡を

甲羅の分まで大袈裟に残す。そんなふうに、自分の過去を人に示してどうなるのかと、禅家では

発想するのである。

最近はブログなど、自己言及と記録を兼ねたような文章をよく見かける。そして「自分は

こういう人だ」と、知ったようなことを書いているのだが、果たして人間はそれほど解りやすい

存在だろうか。熱心な記録や自己言及が、かえって自己をことさらに限定し、苦しめてはいないか。

歴史家にはうつ病が多いと云われるが、それも過去に一貫した解釈を求めすぎるせいだと思える。

現代人の多くは、たぶん情報という泥に浸かりすぎたうつ症状の亀なのだろう。

 

”没蹤跡” 難しい言葉ですが、わたしなりに解釈しますと、「今」に没頭することだと

おもいます。

来年も、仕事においても、家内の介護においても、「今」に没頭して

がんばっていきたいと考えております。

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