あらためて、死とは何か

あらためて、死とは何か

2019.06.14

今日は久しぶりに我が玄侑さんの書「死んだらどうなるの?」から抜粋させていただきました。

 

死によって起こることは、基本的にはからだが有機物に分解されて自然に還ることだった。

問題なのは、その際に「魂」がどうなるのか、ということだが、それについてはほとんどの

民族が、古来死後も永続する何かを想定してきた、と紹介してきた。いや、それが「魂」

だと言っていいだろう。

東洋的な循環型、そしてアブラハムの宗教における直線型。仏教の場合は、じつは輪廻転生

というインド独特の風土に芽生えながらも、お釈迦様が輪廻を断ち切れると宣言したせいか

そこには直線型の極楽浄土が登場してくる。直線型とは、つまり来たところに還るのでは

なく、初めて行く場所が来世と考えられている場合である。

しかし、仏教が提案した浄土も日本では古来の循環型に変形し、「あの世」となって

定着するのだった。いわば自然に還るという実感が、新興の仏教概念を抱き込んで

しまった形だろう。

そのほかにも我々の中にはさまざまな概念や実感が蓄積されてきている。山や海や

月のかなたの「あの世」を書いたのも、阿頼耶識(または遺伝子)に蓄積された奥深い

記憶を呼び覚ますためだ。そういて蓄積された深い意識(または心)の諸傾向が、今度は

我々の見るもの聞くことにも作用する。なぜなら我々の脳は、夥しい記憶を抱えた同じ場所で

思考もする。受け止めた知覚の処理もする。そこにはどうしても蓄積された意識の傾向が

影響してしまうだろうと、私は述べた。デヴィッド・ボームも言うように、我々は

探しているものを見るし、聞いてしまうのである。

それはまるで、観測者がいないときは波として存在し、観測するという行為によって

初めて粒子の姿を見せる光や素粒子の性質そのもののようだ。大胆に言ってしまえば

「あの世」も「魂」も、だから「ある」か「ない」かと考える対象ではなく、あなたとの

相互的な関係性のなかで起きる「できごと」なのである。

つまり「魂」も「あの世」も、「ある」といえるし「ない」ともいえる。また「ある」

わけでもないし「ない」わけでもない。ということだ。

 

今、我々が日常おこなっているお葬式や法事、お盆やお正月のお供えなどは、「魂」が

存在するという前提で慣習的に行われているものですが、このままやっていけばよいと

おもいます。お釈迦様は「自分」と「法」を拠りどころにしなさい、といわれましたが

わたしは個人的には、ご先祖様の「魂」も拠りどころにしてもいいんじゃないかと

おもっています。お墓詣り、大賛成です。

 

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