「息の発見」より

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「息の発見」より

2016.10.27

今月は、五木寛之さんと玄侑さんの対談の書「息の発見」より抜粋させていただきました。

考えてみますと、読経・坐禅・瞑想において大切なのは息の使い方ですし、我々の日常生活においても

大事なときには息を整えます。皆様にも是非読んでいただきたい書です。

 

五木:私は、この六十年間、日本人は物質的恍惚状態を追いもとめるあまり、息というものに対して

あまりにも無関心になってしまったと思っているんです。その揺りもどしのように、いま呼吸法が

ブームですね。そうするとこんどは呼吸法というものを、たとえばスポーツセンターに行ってトレーナー

の指導を受けて、どっちかの上腕の筋肉をふやすとか、下半身を強化するといったような、アスレチック

トレーニングかなにかのように考えてしまう。

でも私は、「息の発見」というのは、身体的技法の発見ではない。そうではなくて、息をすることは、

こんなに嬉しいことだったのか、という実感をとりもどすこと、いのちへの気づきだと思っているんです。

たとえば、いのちにとって、吐く息が大事なのか、吸う息がだいじなのか。あるいは人は死ぬときに

息を吐いて死ぬのか、吸って死ぬのか、こういうことを考えるだけでも、発想の大転換だと思うんですね。

玄侑:瞑想も、いのちへの気づきといえますね。

五木:瞑想というのは、いちばん簡単にいうと、だれでも息をしている。だれでも無意識に呼吸している。

それを意識して、さらにそれを意識しないようにする、という作業なんですね、考えてみると。

玄侑:意識した上で、忘れるんですね。意識しないと方向性が出ません。でも最終的には、それを

忘れるほど三昧にならなくてはいけない。

五木:そういうことなんでしょうね。

玄侑:おそらくそれは、東洋思想にある程度共通した流れなんだと思いますね。混沌が二つに分かれ、

さらに細分化してできあがった分別を、こんどは「不二」とか「無」にもどそうとする。

坐禅もそうですけど、なんでこんな不自然なことをするの?と思うことがありますけれど、それは

自然になるためだよ、ということになるわけです。自然になるのに、不自然なことをやらなければ

ならないのが、たぶん人間なんだと思いますね。

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