利他に生きる~
2015.06.25いつも玄侑さんの書から、いいお言葉を引用させていただいておりますが、今日は立派な生き方を
しておられる友人のお話を紹介させていただきたいと思います。
10年一昔以上前のことらしいですが、ひどい鬱病から幻覚・幻聴をきたし、気が付いたら包丁で首を
切っていた。血が体の半分ぐらい流れ出て、それで死んでいても不思議ではなかったのに、奇跡的に助かった。
さらにひどい鬱病のために精神科医から最低1年の入院が必要だと言われた。ただ、毎日強い睡眠剤で眠らされて
ばかりいる状態をみた、友人の奥様がこのままでは廃人になってしまうと思い、念書をかいて、たった1週間で
精神病院から引っ張り出してきたとのことです。
この決断が正しかったのでしょうね。精神科治療以上の奥様の献身的な頑張りがあって、友人は比較的早期に
社会復帰できました。
友人曰く、「あの時死んでいてもなんら不思議ではなかった。もう一つの命を頂いたと感じているから、これからは
自分のためではなく、迷惑をかけた家族のため、社会貢献のために、利自は捨てて、利他に生きているんだ。」
私は、人間は絶対的なものではないと思っていますので、人間を目標にすることはありません。もちろん、この
友人を目標にすることはありませんが、友人の言葉、思いは目標にしたいと考えます。
私も還暦に近づいてき、戦時中なら、平均寿命をとっくに超えています。ここまで、一生懸命仕事に頑張れたのも
患者様、職員、家族のおかげだと思っています。そろそろ、煩悩・我欲を減らしていかないといけないと思います。
今世において、物質的なものの最たるものは、肉体とお金です。来世では、物質的なものは必要ありません。この世に
肉体とお金はおいていかなければなりません。その準備のため、物質的なものは少しずつ減らし、来世の主体である
魂を磨いていかなければなりません。
ただ、友人のように、今世では社会貢献は続けなければなりません。
仕事での社会貢献は当たり前ですが、だいぶ以前より続けている、毎月のバングラディッシュの子供の支援、年に数回の
盲導犬協会やユニセフや点字図書館、東北のボランティア団体の後方支援は可能な限り継続していきたいと考えて
おります。
これが私の、社会への恩返しです。
嫌いな人と出逢う意味
2015.06.22今日も我が玄侑さんの面白い書から抜粋させていただきました。
誰でも一人や二人、苦手な人、嫌いな人というのがいるものですよね。相手の希望に応じる生き方
と言われたって、そんな人には適応できないと思うでしょう。以前、自分の周囲に起こることには
全て積極的な意味があると申し上げましたが、この苦手な人、嫌いな人のことはどう考えたらいいんでしょう?
禅では、「乾坤只一人」という言葉があるんですが、これはこの世界に存在している人は全て自分の
分身だと思え、ということです。遺伝子から考えてもそうでしたよね。私たちの持っている遺伝子に
大した違いはなくて、ただ目覚めている部分の違いが個性だと、まえにも申し上げたと思うんですが
そうだとすれば新聞を開いて出てくる殺人者も、非常に立派な行為で表彰される人も、全部自分の眠っている
可能性の開花と思えるわけです。同じような遺伝子をもった人間ですから、「こんなことをするのは人間と
思えない」という場合でも、もしかしたら自分の置かれた状況次第では自分がしていたかもしれない。
禅ではそう考えましょうと言うんです。
だとすると、苦手な人、嫌いな人というのも、自分の一部なんですね。嫌がって会わないようにしても
きっと似たようなタイプの人がまた現われますよ。
そういう人が存在して、しかも自分に出逢うことの意味は、おそらく自分にとって最も気づく必要のある
自分の一部だからだと思うんです。そんなはずはないと思うでしょうけど、よーくその人を観察してみてください。
そしてその人のどういう所が嫌なのか、考えてみてください。きっとそれは、今まで意識したくなかった自分の
姿だと思います。
無意識でいるとそのまま変化しないことでも、意識化できたときにそれは自律的に変化し始めます。
多くの人は、自分の中によくない感情、抱くべきでない感情を抱いたとき、それを否定し、抑え込もうと
します。しかしそんな抑圧された感情はその人の中にずっと居坐ることになるんです。そしてそれがやがて
他人の形をとって現われる。そう言うと気味が悪いかもしれませんので、その人の存在が強烈に気になるのは
その抑圧された感情のせいだと言い直しましょうか。
しかしそんな感情も、実は自分のなかにあるわけですよね。本来、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という
「六道」とか、それに声聞・縁覚・菩薩・仏を加えた「十界」を巡っているわけですから。だからそれを認めて
じっくり見つめたり味わったりしてあげるんです。そうすると不思議なことに、認められたことでその感情は
穏やかに変化し始めるんです。
坐禅にも、実はそうした側面があります。ただ坐っているだけですから、いろんなことが浮かんできます。
しかし今まで無意識でいた自分の中の感情を見つめますから、だんだんあんまり激しい感情は湧いてこなく
なるんです。これは本当に不思議ですよ。
嫌いな人がいるのも大切なご縁なんですね。そんな自分もあることを認識して、より幅広い自分になっていく。
清濁併せ呑んだ、東洋的大人でしょうね。