自力の限界に他力の風が吹く

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自力の限界に他力の風が吹く

2015.01.18

今年最初のコラムになります。

今日は玄侑さんと五木寛之さんとの対談の中から抜粋しました。

私も56年間生きてきて、五木さん、玄侑さんの仰る自力と他力の融合が大切ではないかと

感じています。けっしていいとこ取りではありませんが、自力を極めた末に他力を待つのが

人生ではないでしょうか。

 

五木:今日は玄侑さんが禅宗で、私が真宗という分けられ方がされてるんで、玄侑さんは自力の人、

私は他力の人と一般に思われてるんでしょうね。前に石原慎太郎さんと対談したときも、石原さんが

自力で、私が他力という扱いでした。しかし本当は、そうではなくて、仏教ではもともと「自他一如」

という。

玄侑:はい。そのあたりのことも今日はお話ししたいと思って参りました。われわれが五木さんの

「他力」を読ませていただくと、他力と自力と、どちらがより大切かというような話ではなくて、まさに

「仏教の話」を書いていらっしゃるという感じがしました。坐禅であっても、念仏であっても、自力で

やっているうちはある段階までしかいけない。それが自力ではもう限界だという段階まで達したときに、突然

「他力の風」が吹いてきたと感じる瞬間があります。

五木:はあ、玄侑さんもそうですか。

玄侑:われわれ禅宗の側は、自らを自力だとはアピールしていないんですね。少なくともある程度実践して

みると、誰でもそう感じると思います。道元禅師も「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて

自己を修証するは悟なり」とおっしゃっています。まさにこれこそ自力と他力の分かれ目じゃないでしょうか。

五木:なるほど。私が自分の本に「他力」という題名をつけたのは、あまりにも二十世紀が、アメリカを中心とした

グローバルスタンダードの傾向が強かったものですから。日本人は自力の原則の海の中で溺れそうになっているな

と感じたのです。この流れを押し戻すには、少し極端なぐらいのタイトルが必要かとおもいましてね。

玄侑:一遍上人は念仏の人ですが禅の経験もある。彼の書かれたものを読むと、禅と念仏の融合ということを

考えていますね。禅宗の和尚のなかにも、念仏に走る人がけっこういるんです。「禅浄双修」という言葉もあります。

五木:京都の禅寺の偉い方と話していて、その方が、「いや、最終的にはやっぱり他力やな」なんてぽつりと言われた

ことがあるけれども、自力を極めていくと、そこで見えてくるのだろうと思うんですね。どちら側から見るかと

いうことは大事なことなんでしょう。似ているように見えますけどやっぱり違うところはあると思うんですよ。

玄侑:言葉でたどりつける範囲の世界とそれを超えた世界があると思うんです。言葉で理解できる範囲のことを

おそらく自力というのではないか。しかし、それを超えると念仏であろうと坐禅であろうと言葉が及ばない世界が

訪れる。それを禅でも浄土門でも他力と呼んでいいのではないかという気がしています。

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