自己をならう

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自己をならう

2014.03.21

老犬、老猫が寝たきりになったり、亡くなったり、また家内の病気などでなかなかコラムが

書けませんでした。久々の登場です。

道元禅師の「正法眼蔵」における最も有名な一節に対する南僧の解釈に感銘を受けましたので

紹介してみます。

 

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。

 

禅師は「自己をならう」のだと言う。この「ならう」が決定的に重要である。これは「自己を

知る」ことではない。もし「ならう」と「知る」とを混同したら、おそらく禅師の教えの全体が

見えなくなるだろう。

普通われわれが「知る」と言う時には、それは「何であるか」を知ることを意味する。これに対し

「ならう」とは、「習う」「倣う」の文字が示唆するように、「どのようにするのか」、その仕方を

「ならう」のである。だとするならば、禅師が「自己」を「ならう」ものだと言うとき、その「自己」

は、ある存在が何であるかを決定する根拠のようなもの言うのではなく、ある行為の仕方、様式のことで

あろう。つまり、意志し、反省し、決断する、主体としての様式のことである。

そして、それが「仏道をならう」ことなのだと言われるならば、禅師の意味する「自己をならう」とは、

「仏道に従って意志し、反省し、決断する仕方をならう」ことであり、僧侶としての、仏教者としての主体性を

創造することにほかならない。ここにこそ、仏教の倫理的基盤がある。

したがって、「自己」を知る対象として考えてはならない。「知る」ものとしては「わすれ」なければならない

のである。「他者」との関わりの中で、これからどうしようというのか。これまでどうしたのか、今どうするのか

を、刻々考え・決断し・実行する運動が「自己」という営みであり、そのときの「私」・「自分」は、この営み

の様式についた呼称である。道元禅師の言葉の意味は、「自我」に保証された「知る」対象としての「自分」

を「仏道をならう自己」という営みとしての「自分」につくりなおせ、ということなのだ。

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