重みのある言葉

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重みのある言葉

2014.02.17

「負けたくなかった。」

「家族や応援してくれたスタッフのために頑張りたかった。」

「今までのジャンプ生活で95%が苦だった。」

 

先日銀メダルを獲得した葛西選手のお言葉です。

昨今、ちょっとのことで「心が折れそうになった。」と言う若者がいます。これはイチロー選手の言葉をパクッているだけで

イチロー選手や葛西選手とは、経験してきた修羅場の数が違いすぎる。

この葛西選手の言葉は、スポーツ、勉強、仕事に限らず、取りも直さず、人間が苦の連続である人生を生きていく上での

屋台骨になる3本柱であると思います。

想像を絶する努力、数多くの修羅場をくぐってきた人の言葉だから、重みがあります。

優勝したストッフ選手(26歳)は「尊敬する。彼のそばにいれることを光栄に思う。」

3位のプレブツ選手(21歳)は、「私が生まれる前から、彼はワールドカップで飛んでいた。私もあと20年頑張れると

思うと、非常に大きなモチベーションになる。」

自分の歳の半分ぐらいの若者に、これだけのことを言わさせる中・高年はそういないと思います。

競技におけるレジェンドだけでなく、精神面でもレジェンドだとおもいます。

 

 

業(カルマ)

2014.02.10

今日も、尊敬する南さんの書より抜粋させていただきました。

 

業は受け止めて初めて業となる。

仏教に「業(カルマ)」という言葉があります。もともとは「行い」の意味ですが。時代が下ると

現在の人間のあり方を決める(過去や前世の)運命的な力、といった意味で語られることが多くなりました。

私なりに解釈すると、業の核心的な意味というのは、自分がなぜこのような自分であるかがわからないという

ことです。にもかかわらずいまこのようにある。そう決めているものは何か。いわば、業とは「生きる条件と

して背負わされたもの」なのです。人間は自分の責任ではないのに背負わざるを得ないことがたくさん

あります。しかしどんなに重くて決定的なものであっても、それが条件である以上、条件に対して、どういう

態度をとるかということは、人間に最後に残されている自由なのです。

受け止めない限り、業というのは成立しません。「わからない」というのは、切ないことです。それでも

引き受けざるを得ないと決める。どんな苦境にあって、土壇場でそうするかしないかは、その人間が

選べるということです。

それを自分の生きていく条件として受け止めるか、受け止めないか。自ら受け止めなければ、その条件に呑み

込まれ流されるしかないでしょう。つまり、「運命と思ってあきらめる」わけです。

業は運命ではありません。もはやほかに選択の余地がない、そうせざるを得ない状況であるにしても、なお

「そうせざるを得ない」ものとして覚悟と共に引き受ける。これこそ、本人に最後に残された自由だということです。

業というのは、それに向かって態度を決めようという人間にしか存在しないのです。受け止める主体がいない

限りは絶対に成立しません。

運命はそうではありません。人のありようを否応なく決めてしまうものを、私は「運命」と定義しています。

そしてそう決められても構わないという態度を「運命論」と呼ぶのだと思います。この定義に従えば

運命は主体を許さないのです。業との決定的な違いはここにあります。

 

 

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