自分にとって大切なものとは何か

自分にとって大切なものとは何か

2013.12.31

今年最後のコラムも、南僧のお話をお借りしました。

 

「自分のやりたいことがわからない」、あるいは「自分らしく生きたい」などど言う人が

います。しかし、そもそもそう言っている本人にも「自分」がわからないのだから”らしく”

もへったくれもないでしょう。

自分がやりたいこととは何か?自分らしい生き方とは何か?それを考える過程がまったく

無意味だとは言いません。しかし答えは出ないのです。そうした問いに堂々巡りしていては

一歩も先に進めないまま、ジレンマに陥るばかりではないでしょうか。

ここは一つ、発想を変えてはどうかと思うのです。まず「本当の自分」などどうでもいいと

思うこと。「自分はわからなくて当たり前だ」と決めてしまったほうが、ずっと楽に生きれる

はずです。それより、いったい自分は何を大切にして生きたいのか、誰がいちばん大切な人

なのかを考えるのです。

つまり、「問い」の仕方を変えるのです。自分とは何か?などと考えるのではなく、自分に

とって大切なものとは何か?自分にとって大切な人とは誰か?自分がいちばん大切に思う

ことを大切にし、そして大切な人を裏切らないようにしていけば、自然に道は開けるはずです。

私とは何か?

2013.12.9

「自分とはいったい何なんだろう?」と考えた人は多いとおもいますが、おそらく

結論が出ず、答えが出ず、うやむやに考えるのをやめてしまったのではないでしょうか。

南僧のお考えを紹介します。

 

一般に「〇〇とは何か」という問いに回答するとすれば、同語反復にならない限り

「〇〇」とは違うものを持ってきて「〇〇とは××である」と言うほかはない。

が、違う二つのものをイコールで結びつけても最終的には落ち着かないのが道理である。

であるうえに、「私とは何か」という問いは、すでにそれ自体、この問いで考えられている私と、

この問いを考えている私に、たちまちのうちに分裂するから、ただでさえ始末の悪い「私」が

増えてしまう。しかも「私とは何か、と考える私を考える私・・・」と際限なくどんどん増える

ばかりである。

とすれば、この問いを解決するには、答えを考えることより、考えることをやめる算段を

するほうがよい、ということになる。

ここまではすぐ思い当たるにしても、問題はどうやって考えることをやめるか、である。

ひとつのテは神様にお任せすることだろう。全能唯一の絶対者というのは、要するに

原因なくして存在するもの、そのほか一切を生ぜしめるもの、ということであるから

これを持ち出すのはよしなさいね、と言うに等しい。ゆえに「信じる者は救われる」

わけである。

自然への畏敬

2013.12.3

今日も南僧のお話より抜粋しました。

 

阪神大震災が起こったとき、誰かがテレビで「あってはならないことが・・・」などと口走っていたが

人間の頭であるかないかを決められるようなことは、自然にはない。こんな浅はかなことを言い出す

人間こそが、自然「破壊」や「保護」とかを、都会のど真ん中で安直に喧伝するのであろう。

だいたい自然は「破壊」したり「保護」したりできるものではない。なぜなら、それは自然にとって

どうでもいいことだからである。人間に都合ののよい「環境」は破壊されもしようし保護もされようが、

自然自体にとっては、それらは単に、自らの物質構成に若干の変化が生じただけのことにすぎない。

「破壊」されるわけでもなく、「保護」されるいわれもないのである。

テレビで無邪気なことを言っていた御仁には、自然が持つよそよそしさ、その超越に想像力が

及ばないのだろう。及ばなくなっているのだろう。

なにもエコロジーの運動が無駄だとか、間違っているとか言いたいのではない。そうではなくて

自然が人間の手に余る存在だという、徹底的な自覚がないかぎり、私たちはまっとうな関係を

自然との間につくることはできないし、保護らしい保護もできないだろうと言っているのである。

 

私も、今の人間には「自然を制御」できるという驕りがあると思う。それは動物たちに対しても

同じである。我々はもっと自然や動物たちに対して畏敬の念をもたなくてはならないのでは

ないだろうか。

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