便利は不便

便利は不便

2014.01.22

曹洞宗の雄、南さんの書から抜粋させていただきました。

 

「便利さゆえに不便になっている」

個々人の「発想の転換」も迫られています。一度生活水準が上がってしまうと、もう下げられないと

思いがちですが、本当にそうなのか。携帯電話がなければやっていけないと言う人がいるが、やって

みたことがあるのか。携帯電話を手に入れて、生活が本当に豊かになったのならいいでしょう。

しかし、携帯で済むほどの話というのは、実はたいしたことではないのではないでしょうか。

今は、「余計なもの」を省くというよりは、「必要なもの」を省く段階に来ているのです。そういう

発想の転換が必要ではないでしょうか。だからといって、携帯電話をなくそう、と言うのではありません。

資本主義の競争社会でビジネスマンとして儲け話を扱っているような人にとっては、それを持つ意味は

まったく違うでしょう。しかし、ビジネスというのは人間社会のある一面であって、すべてではありません。

多くの人は、携帯電話で済むような話であればたいしたものではないだろう、そう思うくらいの気持ちは

あったほうがいいと思います。よくよく考えてみれば絶対視するほどのものではないはずです。

私自身、携帯電話を持つようになったのはずいぶん遅く、三、四年前からだったと思います。まるで電話に

追いかれられるような感じが嫌でしたし、便利かもしれないが、なくても困らないだろう、というのが当時の

考えでした。この考えはいまでも変わりません。本当に必要な連絡なら、必ずなんらかの方法で伝えるはず

だからです。だから、便利であるにしても、ぜひ使わなければいけない筋合いはないと思うわけです。

便利だけれども必要ない、ということです。

考えとしてはそれでいいのですが、現実に問題なのは、便利なものが便利であるように、普及すると、社会は

みんながそれを持っていることを前提に動き出すことです。そうなると今度は、単に「便利」だったものが

「必要」なものに変わってしまうのです。

ということは、文明社会が限りなく、「便利さ」を追求すると、限りなく「必要なもの」が増えることに

なるでしょう。しかし、世の中「必要なもの」だらけになったら、これほど不便なことはありますまい。

そこで大切なのは、「必要」を判断する基準です。「必要なもの」の増殖に歯止めをかける考え方です。これは

個人の価値観と社会の合意によってしか形成されないでしょう。

実は、環境問題の難しさの本質もここにあります。我々は「便利なもの」を我慢すればよいのではなく、

いまや「現実必要だと思っているもの(思いこんでいるもの)」を捨てる覚悟がいる段階に来ているのでは

ないでしょうか。

 

私も南僧のお考えを支持する向きです。

携帯電話ほど不便なものはないと思っていますし、携帯電話は携帯しないことにしています。

しばらくの間、壊れたままほっておいた期間がありましたが、何か解き放たれた爽快感があり、

このまま直さずに携帯せずにおこうと思っていましたが、家内に「急な連絡がとれない」と叱られ

直しました。まあ、実際、急な連絡なんてほとんどありませんが・・。

また、利便性の代表格である原発は絶対捨てないといけないと考えます。利便性と危険性が

表裏一体であることは経験済みなのに、なぜ? 心(仁)がないからでしょうね。

仁(心)

2014.01.18

私は仏教徒でありながら無宗派ですが、伝統教団各宗派のいいところ、よき考えを取り入れて生きたい

と考えております。各宗派の中でも禅宗である臨済宗、曹洞宗の双璧、玄侑宗久さん、南直哉さんの

書を好んで読んでおります。このお二方の特徴は、「自分とは何か?」「人はなぜ生きるのか?」という

古代から未来永劫に続く”問い”に対し、お釈迦様の教えを忠実に守りながらも新たな科学的な分析を加え

解析し、私たち素人にも理解しやすい言葉で解説して下さっている点です。

昨今のお坊さんや政治家、医者のなかには、心ではなく建前で生きている方が多く見受けられます。

しかしこのお二方は、真の仏教者であると、私は思います。

 

かって聖職(今では死語)と呼ばれた上記の職業も、今ではビジネス化し、かけらも見当たりません。

私は医者で、政治家やお坊さんの世界はよくは存知あげませんが、少なくとも医者になるには

巷では偏差値が高いと言われる医学部に入学しないといけないと言われます。ただ、偏差値の高い生徒とは、

私なりに解釈すると、物事をどれだけ瞬時に暗記し、またそれを瞬時にどれだけ正確に答案に再現できるか

という能力に長けた生徒です。

そこには、仁(心)は介在しません。

しかし、お釈迦様も言われるように、生き難い=苦である人生を乗り切るには、やはり仁(心)を伴った行いが

必須なのではないでしょうか。

医業においては、今では軽んじられている”医は仁術”という言葉を再度噛みしめる必要があるのではないでしょうか。

 

自分にとって大切なものとは何か

2013.12.31

今年最後のコラムも、南僧のお話をお借りしました。

 

「自分のやりたいことがわからない」、あるいは「自分らしく生きたい」などど言う人が

います。しかし、そもそもそう言っている本人にも「自分」がわからないのだから”らしく”

もへったくれもないでしょう。

自分がやりたいこととは何か?自分らしい生き方とは何か?それを考える過程がまったく

無意味だとは言いません。しかし答えは出ないのです。そうした問いに堂々巡りしていては

一歩も先に進めないまま、ジレンマに陥るばかりではないでしょうか。

ここは一つ、発想を変えてはどうかと思うのです。まず「本当の自分」などどうでもいいと

思うこと。「自分はわからなくて当たり前だ」と決めてしまったほうが、ずっと楽に生きれる

はずです。それより、いったい自分は何を大切にして生きたいのか、誰がいちばん大切な人

なのかを考えるのです。

つまり、「問い」の仕方を変えるのです。自分とは何か?などと考えるのではなく、自分に

とって大切なものとは何か?自分にとって大切な人とは誰か?自分がいちばん大切に思う

ことを大切にし、そして大切な人を裏切らないようにしていけば、自然に道は開けるはずです。

私とは何か?

2013.12.9

「自分とはいったい何なんだろう?」と考えた人は多いとおもいますが、おそらく

結論が出ず、答えが出ず、うやむやに考えるのをやめてしまったのではないでしょうか。

南僧のお考えを紹介します。

 

一般に「〇〇とは何か」という問いに回答するとすれば、同語反復にならない限り

「〇〇」とは違うものを持ってきて「〇〇とは××である」と言うほかはない。

が、違う二つのものをイコールで結びつけても最終的には落ち着かないのが道理である。

であるうえに、「私とは何か」という問いは、すでにそれ自体、この問いで考えられている私と、

この問いを考えている私に、たちまちのうちに分裂するから、ただでさえ始末の悪い「私」が

増えてしまう。しかも「私とは何か、と考える私を考える私・・・」と際限なくどんどん増える

ばかりである。

とすれば、この問いを解決するには、答えを考えることより、考えることをやめる算段を

するほうがよい、ということになる。

ここまではすぐ思い当たるにしても、問題はどうやって考えることをやめるか、である。

ひとつのテは神様にお任せすることだろう。全能唯一の絶対者というのは、要するに

原因なくして存在するもの、そのほか一切を生ぜしめるもの、ということであるから

これを持ち出すのはよしなさいね、と言うに等しい。ゆえに「信じる者は救われる」

わけである。

自然への畏敬

2013.12.3

今日も南僧のお話より抜粋しました。

 

阪神大震災が起こったとき、誰かがテレビで「あってはならないことが・・・」などと口走っていたが

人間の頭であるかないかを決められるようなことは、自然にはない。こんな浅はかなことを言い出す

人間こそが、自然「破壊」や「保護」とかを、都会のど真ん中で安直に喧伝するのであろう。

だいたい自然は「破壊」したり「保護」したりできるものではない。なぜなら、それは自然にとって

どうでもいいことだからである。人間に都合ののよい「環境」は破壊されもしようし保護もされようが、

自然自体にとっては、それらは単に、自らの物質構成に若干の変化が生じただけのことにすぎない。

「破壊」されるわけでもなく、「保護」されるいわれもないのである。

テレビで無邪気なことを言っていた御仁には、自然が持つよそよそしさ、その超越に想像力が

及ばないのだろう。及ばなくなっているのだろう。

なにもエコロジーの運動が無駄だとか、間違っているとか言いたいのではない。そうではなくて

自然が人間の手に余る存在だという、徹底的な自覚がないかぎり、私たちはまっとうな関係を

自然との間につくることはできないし、保護らしい保護もできないだろうと言っているのである。

 

私も、今の人間には「自然を制御」できるという驕りがあると思う。それは動物たちに対しても

同じである。我々はもっと自然や動物たちに対して畏敬の念をもたなくてはならないのでは

ないだろうか。

諸行無常

2013.11.30

尊敬する南僧の言葉より。

 

私たちは選択の自由があって生まれてきたわけではないし、死ぬのに理由を教えてもらえるわけでもない。

それは単なる事実として、無根拠にこの世に炸裂する事実、すまわち「問い」である。

始めと終わりに根拠がないのに、中間にそれがある道理もない。ならば、人生は全体として、

それ自体、無根拠で無意味である。我々は、意味や価値があって生きているのではなく、

生きていることが意味や価値をつくることなのだ。これを称して仏教では、「諸行無常」と言う、

のだと私は思う。

 

こうしなければならないと、最初から決まっていることなど、この世にひとつもない。だが、

しなければならないことを自ら発見できない人生は、おそらく寂しいだろう。

根拠が欠けている人生に向かって、「何故に生きるか」と問うても無駄だ。根拠は

つくり出すものだとするならば、「諸行無常」への問いは「何故に生きるか」である。

不可能であるゆえの誓い

2013.11.24

今日も玄侑さんの言葉の中から。

 

どうして命が大切で、なにゆえ殺生がいけないことなのか、それを理詰めで

教育しようとする風潮が今の世の中にはあるが、おそらくそれは無駄なことなのだ。

理詰めで進める限り、どんな意見にも必ず反対意見がありえるからである。

思えば完全に受け身で産み落とされた我々の命。そのままでは大切にすべき理由は

見当たらない。しかしそんな命を大切なものとして慈しみ育ててくれた人々がいた。

そのことで、感覚的に大切そうな命と感じる人々は多いだろう。

それでも同じような体験を全ての人が共有できる世の中ではないから、今は尚更

誓いこそが大切なのである。

不殺生戒が仏教発生以来ずっと変わらず続いてきたのは、それが結局は遵守不可能で

あるからだ。律儀なドイツ人の仏教会は、不殺生戒だけを除いて仏教を受け容れると宣言

したことがあるらしいが、不殺生戒を字義どおりに受けとめれば無理もないことだ。仏教は

動物も植物も対等の命と認め、家畜などという手前勝手な考え方もしないから、今日一日を

生き延びるためにさえ無数の殺生をしなくてはならない。そのことを自覚して懺悔し、不殺生を

誓いつづけるのである。

ではそれほど実現不可能な戒をどうして立てるのか、不思議に思う方もいるに違いない。

しかしそれはあまりに合理性に慣れすぎた考え方と云えるだろう。実現不可能であるからこそ

、戒は永遠のものとなる。不偸盗戒(盗むな)も不淫戒(交わるな)も不妄語戒(ウソつくな)も、

つきつめれば完璧な成就が不可能であるゆえに永遠の誓いなのではないか。

自分の心次第

2013.11.19

相田みつをさんの語録集より。

 

「しあわせはいつも自分のこころがきめる」

 

お釈迦様も仰っているように、人生は苦の連続ですが

幸と感じるか不幸と感じるかは、自分の心次第だとおもいます。

 

枯れる

2013.11.6

人間に置き換えても、若いときは、わが身の欲望に振り回されることが多いでしょう。

それは夏の鬱蒼とした木のようなもので、枝が伸びて葉っぱが繁って収拾しきれなく

なってしまう状態です。それで鬱になったりもするわけです。「鬱」という字はもともと植物が

繁茂している状態のことです。

今まで邪魔にしてきたものさえ驚くばかりの美しさを見せるようになるのは

秋になって余計なものをだんだん捨ててわが身を使いこなせるようになるからでは

ないでしょうか。

だんだん枯れていくことをよしとする価値観が今、見当たらなくなりつつあります。

それでは紅葉しないんですね。変化しない造花と同じです。

私たちにとってほんとうに身についているものとは、葉っぱが散って残る木の

幹や枝のようなものです。つまり、葉っぱが枯れて幹だけになってもいいわけです。

それが、晩年の人間の姿じゃないでしょうか。

 

玄侑先生はこのように仰っています。

私も同感です。今はやりのアンチエイジングや不老長寿ということには

全く価値観を覚えません。

歳相応に枯れて死んでいく、これほど美しいものはないと、思います。

願いなきことーこれが幸せ

2013.10.28

またまた玄侑先生のお言葉をお借りしました。

 

禅では「無事」といいますが、その意味は自分の外に何も求めることがなくなった状態です。

何かを目指していないのです。

私たちは、目標を次々に設定して、それが叶ったときこそが幸せだと思っています。けれども

、願いなきことーこれが、最高の幸せではないかと思います。何か目標をもっていると、人は

熱くなるんです。「ねばならない」ということが多いと蒸し暑いし風通しがよくない。

見る目が何色かに染まっていると、ものがちゃんと見えてこない。目標に向かって

燃えていると、極端に自分の都合によってものを見ているので、いい出会いのご縁が

いただけないんです。

願いをもたず、いつもニュートラルな状態であれば、どんな出会いともちゃん向き合うことができ

、そこから何かが生まれていきます。ある意味で「願い」というのは、頭で考える人為的な

思惑なんですよ。「願い」を持つと、「こうであってほしい」という前提条件を抱えることになるわけです。

 

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