利他の精神が失われている・・

利他の精神が失われている・・

2014.09.2

本日、愕然をするようなことに遭遇しました。

数年前にどこかの医療機関で白内障手術を受けられた患者様が、今日来院されました。

手術を受けたところ以外にも複数の医療機関を受診され、その後、緑内障なら当院がいいと

勧められ受診されたそうです。

中心視野が消失し、耳側にわずかに視野が残存するⅤーbという晩期緑内障でした。

この状況から判断すると、私でなくてもきちんと勉強している眼科医なら、数年前に受けるべき手術は

白内障手術ではなく緑内障手術であったことは、自明の理であります。

 

患者様のお話では、「白内障手術をしてもらったが見えない」と言いましたら、「あなたは緑内障があるから

みえないのです。」と、手術が終わってから初めて緑内障のことを医師から告げられたそうです。

聞いてみますと、手術前に何回か視野検査は受けられたとのことです。白内障を手術する前になぜ

緑内障のことを言ってくださらなかったのかと悔やんでおられます。

緑内障を見落としていたのか、あるいは晩期緑内障が分かっていて白内障手術を強行したのかは

分かりませんが、普通に勉強している眼科医なら、このケースは白内障手術をしても患者様に

満足を与えることができないことはわかるはずです。利自に走ったのでしょうね。

訴訟になっても、道義的責任だけではすまされないミスと判断されても文句言えないケースです。

 

こんなケースが散見されるのは、眼科教育のシステムにも問題があるのでしょうね。

眼科医になれば1、2年で白内障手術が習得できます。白内障手術ができれば一人前と履き違えて

おられるかたが多くみられる。眼底の病気に十分な知識、経験がなく、濁っているだけで白内障手術を

闇雲にやってしまうのだから、こんな悲劇が多発するのでしょうね。

 

情けないですね。医は仁、利他の精神が一番大切であることを肝に銘じていただきたいですね。

 

自然界からの逆襲

2014.08.5

以前にも、フクシマ原発事故は、利便性・利潤性だけを追求した人間社会に対する自然界からの警鐘である

と述べたが、最近西アフリカで流行しているエボラ熱も同様である。

私は、奢りきった人間に対して、サムシング・グレートが津波やウイルスを使って警鐘を鳴らしてくれているのだと

思う。

 

核の最終処分地の住民たちの猛反対を受けながらも、まだ原発をやめない、どころか原発のノウハウを海外に

輸出までしている。

中国もワシントンまで届く大陸間弾道弾ミサイルも所有し、ロシアを巻き込み、冷戦の再来さらには第三次世界大戦

=核戦争の危惧も膨らんでいる。

 

フェースブック、ツイッターに翻弄されている奢った人間たち。利便性の最たるものだが、結局は利潤の一極集中化の

カモにされていることに気づいていない。

 

いい加減に気付かないと、間違いなく人類は核あるいはウイルスによって滅亡するだろう。

 

私の理想は宮沢賢治の世界。宇宙、銀河、空、地上の生き物たち、海の生き物たち。

奢らない彼らが一番自然だ。

サムシング・グレート

2014.07.15

子どもの頃、1cm四方の角砂糖を半分ずつにどんどん割っていけば最後はどうなるのだろうか?とか

中学の頃、理科で、宇宙はビッグ・バーンで誕生した、とか習った憶えがあります。

角砂糖は実際には目に見えなくなり消失しますが、理論上は0にはならないのではないか?また

ビッグ・バーンが宇宙の起源とされているが、それならビッグ・バーンが起こる前の状態はどうだったのか?

私は子供なりに悩み、寝床であれこれ考えながらいつも間にか寝てしまっていました。

これを仏教に例えると、「人の心、魂はどこから来たのか?」「人の死後、魂はどこに行くのか?」

これに匹敵する疑問と思われます。

ここで登場するのが、”サムシング・グレート”です。

”サムシング・グレート”に造詣の深い村上先生と玄侑さんの意見を聞いてみましょう。

 

村上:本気で研究している人は、命の本質はそう簡単にわからないという事実を理解しています。私は、

科学者がそうした存在について発言する必要があるんじゃないかと思うようになったのです。

これまでサムシング・グレートについては宗教家や道徳家をはじめとしていろんな人が語ってきた。しかし

科学者は沈黙してきたのです。私は及ばずながら、そのメッセンジャーになりたいと考えているのです。

玄侑:あらためて村上先生がイメージするサムシング・グレートとはどのようなものなのでしょうか。

村上:全人類、全生き物をつくった親のようなものというふうに考えているんです。地球上の生物が等しく

同じ遺伝子暗号を持っているということは、私たちの生命がたったひとつの生命体から始まった可能性が

高い。私たちには親がいますが、その親、そのまた親とたどっていけば、その先には「生命の親」とも

言うべき存在に到達すると思うのです。

私たちはやはり何かから生み出されたのです。その生み出した根源的なものをサムシング・グレートと

名付けました。おそらくサムシング・グレートは、理性では永遠に分からないところが残ると思います。

玄侑:しかし、感じる必要はある。

村上:少なくともそういう存在があるという考え方、それから生命の進化はでたらめでも偶然でもない

ということを知ってほしい。これをでたらめだと考えるのは、非科学的です。目に見える形では確認

できませんが、やっぱり何かある。その何かを追いかけていくのが科学者の務めではないでしょうか。

「命はほんとうにすばらしい」と思える感性は、人間が生きていくうえで非常に大切ですし、私たちの

人生を豊かにしてくれると思います。私自身は科学者として決して優れていないと自己評価しています。ただ、

私のユニークなところは、サムシング・グレートを感じているところだし、そこが私の活躍する場所、生きる

場所じゃないかと思うのです。

 

科学と宗教はワンセットになっている

2014.07.3

遺伝子研究の権威、村上和雄先生と臨済宗の雄、玄侑さんとの対話形式の書より抜粋しました。

 

玄侑:よく信仰と科学は相容れないように語られますけど、おそらく、あるところでセットに

なっているのだと思います。科学的な実験でも必ず仮説を持つでしょう。仮説に対する思い

というのは、おそらく信仰に近い。実は科学者は仮説を裏付ける証拠を探しているのだと思うのです。

そして、探しているものは見つかるんですよ。

村上:私もそう思います。たとえば、科学者は宇宙や人体に法則性があると思って、それを

探しています。実験がスタートする時点では科学的根拠はないのですが、それでも信じているから

探すのです。最初から「ない」と思ったら探せませんからね。

もちろん科学者にもいろんな人がいます。すぐに社会に役立つような研究をやっている人もいる。

しかし、そもそも科学者というもは、実利にはほとんど目もくれずに、「宇宙の果てはどうなって

いるんだろう」とか「命とは何なのか」といったことを科学の言葉を使って証明しようとする

人たちです。ある意味では、だから遊び的な要素もあるし、信仰的な要素もある。

ただ、それがいま遊びじゃなくなっているから、問題が起こるのです。特許をいくつ出しました、

これだけの論文を書きました、という話になってしまう。本来は余裕のある人がパトロンに

なって、「好きなようにやれ」というのが理想だと思います。

玄侑:村上先生はそうした遊び心や信仰心を持って、心や魂という科学が扱いにくいテーマに

挑戦されているところがすごいですね。

村上:いまのところ科学は魂の問題にアプローチできません。この前、心理学者で文化庁長官の

河合隼雄さんとお話ししたとき、「魂と遺伝子の関係を研究しよう」と言われました。テーマ

としてはおもしろいが、科学の土俵で魂を論じるのは、心よりもさらに難しい。

以下省略。

 

私も、信仰と科学は相反するイメージを持っていましたが、この世の中、科学では証明できない

ものがたくさんあります。数千年前のお釈迦様の時代から、「人はなぜ生きるの」、「死後の

世界はあるのか」という問いには現代でも答えは出ていませんし、今後科学がいかに進歩

しても、この答えは出ないと思われます。そういった科学では証明できないところを補うのが

信仰心ではないでしょうか。科学一辺倒では生きられない、その部分で科学と信仰心のリンク

が必要ではないでしょうか。

医学も科学の一つですが、いくら医学が進歩しても、「人生は苦の連続である」、「人は必ず

死ぬ」ことから逃れることはできない。

私も含め人は誰でもある程度は医学のお世話になりながらも、最終的に人の幸せを決めるのは

科学ではなく心、すなわち信仰心ではないでしょうか。「人生は苦の連続である」ことは

まぎれもない事実ですが、その中で一握りの幸せがあれば、その人の人生は価値ある、有意義

な人生ではないでしょうか。

集団心理

2014.06.28

都議会の”やじ”問題。果たして1対1ならやじを飛ばせただろうか?周りに自民党系の議員が何人も

いたから、自民党を代表して「よく言った!」ぐらいのつもりで、ヒーローになったぐらいのつもりで

やじをとばしているのであろう。周りの議員もそれに同調して「そうだ、そうだ!」と。

典型的な集団心理、群れないと何も出来ない。一人では何もできない。

 

過去に医師会と、社保、国保の方との懇談会で、同じような光景を見たことがある。

一人では弱いのに、群れると気が大きくなる。

 

議員、医師としてではなく、それ以前に一人の人間、一人の男として責任持って発言していただきたい

ものだ。

何かあったら、責任とって腹を切る、あるいは命のやりとりをするぐらいの気概をもって

発言・行動していただきたい。それが男ではないでしょうか。

煩悩

2014.06.1

ブッダの言葉 法句経三九より

 

心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱されることなく、善悪のはからいを捨てて

目ざめている人には、何も怖れることが無い。

 

商売の肝心かなめのポイントは、自分が扱う商品やサービスに絶対の自信を持つことです。

「業界ナンバーワンのシェアーを張っている」などではなく、「愛情を持ち、自信を持って売り込む」

ということです。

なによりも大事なことは「お客様に喜んでいただく」ことを念頭におくことです。

我々の業界では「患者様に喜んでいただく」ことです。

これこそ「心が煩悩に汚されず」「思いが乱れない」ことです。そういう人には善悪のはからいなど

必要ないし、怖れる必要もないのです。

 

私自身、煩悩がないとは言いませんが、少なくとも、煩悩を減らす努力はしています。

医療における煩悩とは、「患者様の満足」よりも「業績=金儲け」を優先することです。

昨今のお医者様を見ていると、どうみても「患者様の満足」を優先しているとは思えない方が多いです。

白内障手術を例にとっても、明らかにこの眼は手術しても患者様は喜んでくれないと思える眼に手術が

施されているケースが多くみられます。結果が出ようが出まいがお金儲けはできる訳です。

手術と同様に高額の医療費がかかるレーザー治療においても、明らかにレーザーをうつ意味がないと

思われるケースも散見されます。

ここで問題なのが、良くならないことが分かっていて意図的に、目先の金儲けに走っているのか

あるいは、「良くならない」こと自体がそのお医者様には分かっていないのか?

後者の方も多くおられるようにおもえます。

 

一つの原因として、我々眼科領域では、「白内障手術が出来れば一人前だ!」「白内障手術が出来れば開業できる!」

と履き違えているお医者様が多いようです。明らかに開業する歳が他科に比べ若いです。

それにたかが白内障ではなく、私は、眼底疾患の十分な知識および眼底疾患の手術経験のある方に白内障手術を

行っていただきたいものだ、と痛感しています。

そうすれば、目先の金儲けに走らず、無駄な手術も減らせ、「手術受けたが満足していない!」不幸な患者様を

減らすことができ、その結果、国家予算に占める医療費も減ってくることは自明の理であります。

 

煩悩を減らし、もっと勉強していただきたいものです。もちろん私も含めてです。

継続

2014.04.19

子どもの頃、学校の先生やスポーツの監督から、”継続は力なり”という言葉をよく聞かされました。

が、その言葉を漠然を覚えただけで、今思うと全く言葉の意味が分かっておりませんでした。

 

今日、家内の病気に関する相談をさせていただこうと、家内の50年来の親友の方に電話させて頂きました。

私よりはるかに長い年月、家内のことを知ってくださっており、話を聞いて頂き、私の胸のつかえも少し

楽になりました。

これだけ長い年月、親友を続けられるのは、人生において”継続は力なり”の最高の見本だと思います。

 

私の職場の職員の大半は勤続年数10年以上の方で、私の医院も5月で17年目を迎えますが、これは

私の力ではなく、継続勤務してくださっている職員の”継続は力なり”の賜物だとおもいます。

また、継続的に受診してくださっている患者様のおかげでもあります。

 

私は開業以来16年間、仕事中心に動いてきましたが、これからは少し手を緩めて(手を抜く訳ではありません)

家内のことを中心に考え、これからの人生を生きていこうと決心しました。

患者様および職員の皆さんに多々迷惑をおかけすることがあるとおもいますが

よろしくお願いいたします。

自己をならう

2014.03.21

老犬、老猫が寝たきりになったり、亡くなったり、また家内の病気などでなかなかコラムが

書けませんでした。久々の登場です。

道元禅師の「正法眼蔵」における最も有名な一節に対する南僧の解釈に感銘を受けましたので

紹介してみます。

 

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。

 

禅師は「自己をならう」のだと言う。この「ならう」が決定的に重要である。これは「自己を

知る」ことではない。もし「ならう」と「知る」とを混同したら、おそらく禅師の教えの全体が

見えなくなるだろう。

普通われわれが「知る」と言う時には、それは「何であるか」を知ることを意味する。これに対し

「ならう」とは、「習う」「倣う」の文字が示唆するように、「どのようにするのか」、その仕方を

「ならう」のである。だとするならば、禅師が「自己」を「ならう」ものだと言うとき、その「自己」

は、ある存在が何であるかを決定する根拠のようなもの言うのではなく、ある行為の仕方、様式のことで

あろう。つまり、意志し、反省し、決断する、主体としての様式のことである。

そして、それが「仏道をならう」ことなのだと言われるならば、禅師の意味する「自己をならう」とは、

「仏道に従って意志し、反省し、決断する仕方をならう」ことであり、僧侶としての、仏教者としての主体性を

創造することにほかならない。ここにこそ、仏教の倫理的基盤がある。

したがって、「自己」を知る対象として考えてはならない。「知る」ものとしては「わすれ」なければならない

のである。「他者」との関わりの中で、これからどうしようというのか。これまでどうしたのか、今どうするのか

を、刻々考え・決断し・実行する運動が「自己」という営みであり、そのときの「私」・「自分」は、この営み

の様式についた呼称である。道元禅師の言葉の意味は、「自我」に保証された「知る」対象としての「自分」

を「仏道をならう自己」という営みとしての「自分」につくりなおせ、ということなのだ。

重みのある言葉

2014.02.17

「負けたくなかった。」

「家族や応援してくれたスタッフのために頑張りたかった。」

「今までのジャンプ生活で95%が苦だった。」

 

先日銀メダルを獲得した葛西選手のお言葉です。

昨今、ちょっとのことで「心が折れそうになった。」と言う若者がいます。これはイチロー選手の言葉をパクッているだけで

イチロー選手や葛西選手とは、経験してきた修羅場の数が違いすぎる。

この葛西選手の言葉は、スポーツ、勉強、仕事に限らず、取りも直さず、人間が苦の連続である人生を生きていく上での

屋台骨になる3本柱であると思います。

想像を絶する努力、数多くの修羅場をくぐってきた人の言葉だから、重みがあります。

優勝したストッフ選手(26歳)は「尊敬する。彼のそばにいれることを光栄に思う。」

3位のプレブツ選手(21歳)は、「私が生まれる前から、彼はワールドカップで飛んでいた。私もあと20年頑張れると

思うと、非常に大きなモチベーションになる。」

自分の歳の半分ぐらいの若者に、これだけのことを言わさせる中・高年はそういないと思います。

競技におけるレジェンドだけでなく、精神面でもレジェンドだとおもいます。

 

 

業(カルマ)

2014.02.10

今日も、尊敬する南さんの書より抜粋させていただきました。

 

業は受け止めて初めて業となる。

仏教に「業(カルマ)」という言葉があります。もともとは「行い」の意味ですが。時代が下ると

現在の人間のあり方を決める(過去や前世の)運命的な力、といった意味で語られることが多くなりました。

私なりに解釈すると、業の核心的な意味というのは、自分がなぜこのような自分であるかがわからないという

ことです。にもかかわらずいまこのようにある。そう決めているものは何か。いわば、業とは「生きる条件と

して背負わされたもの」なのです。人間は自分の責任ではないのに背負わざるを得ないことがたくさん

あります。しかしどんなに重くて決定的なものであっても、それが条件である以上、条件に対して、どういう

態度をとるかということは、人間に最後に残されている自由なのです。

受け止めない限り、業というのは成立しません。「わからない」というのは、切ないことです。それでも

引き受けざるを得ないと決める。どんな苦境にあって、土壇場でそうするかしないかは、その人間が

選べるということです。

それを自分の生きていく条件として受け止めるか、受け止めないか。自ら受け止めなければ、その条件に呑み

込まれ流されるしかないでしょう。つまり、「運命と思ってあきらめる」わけです。

業は運命ではありません。もはやほかに選択の余地がない、そうせざるを得ない状況であるにしても、なお

「そうせざるを得ない」ものとして覚悟と共に引き受ける。これこそ、本人に最後に残された自由だということです。

業というのは、それに向かって態度を決めようという人間にしか存在しないのです。受け止める主体がいない

限りは絶対に成立しません。

運命はそうではありません。人のありようを否応なく決めてしまうものを、私は「運命」と定義しています。

そしてそう決められても構わないという態度を「運命論」と呼ぶのだと思います。この定義に従えば

運命は主体を許さないのです。業との決定的な違いはここにあります。

 

 

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