一貫した「私」なんてない

一貫した「私」なんてない

2015.04.29

今日も玄侑さんと鈴木秀子さんの対談の中から抜粋させていただきました。

 

玄侑:あんまり理屈で考えない方がいいんですよね。ものごとの解釈に整合性ばかりを求めないほうがいい。

いつも思うですけれども、聖書っておもしろいですよね。書いている人も大勢ですし、よく言えば幅があって

重層的なんですが、悪くいえば整合性がないというか・・。

鈴木:ええ、そうですね。

玄侑:そのなかで、どこの、どんな記述が自分の目にとまるかも、やっぱり人によって違うでしょう。

そのときの自分の都合だとか、事情だとか、心持ちに触れる部分に惹かれるわけじゃないですか。

仏教だって、無数にある経典というのは、結局、聖書と同じで、整合性なんかありません。だから

私はよく「方便」という言葉を使うんですよ。

鈴木:「嘘も方便」の「方便」ですね。

玄侑:「嘘も方便」と言うとなんだかずるいことのように思えるけれど、けっしてそうではないんです。

「方便」とは役を演じているという意識です。だから「人生も方便」だと思っていれば、その時々で役が

うまく演じられないことはあるかもしれないけれど、「自分」の全体が決定的に否定されることはない。

だって、どんな自分も役に過ぎないんですから。

私だって、一人で原稿を書いているときと、女房と話しているときと、檀家さんと話しているときでは

全然、違うわけです。違うのが当たり前なんです。常に一貫した、変わらない「私」があるべきなんて

思わないほうがいい。

鈴木:誰だってそうですね。

玄侑:たとえば会社で上司にしかられたり、同僚とうまくいかなかったり、取引先ともめたりしても、それは

役の上での出来事に過ぎないじゃないかと・・。

鈴木:人生のすべてに失敗したわけじゃない。

玄侑:ええ。その役は永遠に続くものではないし、自分の人生には別の役も無数にある。夫であったり、

父親であったり、趣味の世界の何かであったり。だから、人生は方便で、いろいろな役を演じ続けていくことだと

考えれば、どこかで失敗があったり、ストレスを感じることがあっても、必要以上に引きずらなくてすむのでは

ないでしょうか。

鈴木:いい言葉ですね。人生も方便。人生がつらくなってしまう人って、まじめすぎたり、理性的すぎたりして

何事も深刻に考えすぎるから、あれもこれもと引きずってしまうのでしょうね。

玄侑:それで鬱病になったりするのでしょう。鬱病になる人の最大の特徴は、自分の中に過去の時間が未完の

ものとして蓄積されていることだと思うんです。つまり、「取り返しのつかない過去」がいっぱい詰まっている。

現在が過去に縛られているんです。

鈴木:だから何をやっても楽しくないし、何をする意欲もわいてこない。

玄侑:でもねえ、ここが大事なところなんですけれど、「取り返しのつかない過去」なんて本当は存在しない

んですよ。だって、時間というものはあくまでも人間が自分の頭の中で作り上げたものでしょう。どんな過去

だって、その時点では「現在」だったんです。私たちが生きている一瞬一瞬は、すべて別々な「今」でしょう。

別々なものに秩序を与えて、並べて、それが時間だと思っているのは、私たちの脳です。私たちが生きている

のは、「今、ここ」の一瞬一瞬でしかない。だから、「あのとき、ああすればよかった」なんて思っても

深刻に悩みすぎちゃいけない。

とはいえ、私たちは社会的な生き物ですから、会社へ行って「昨日の失敗は存在しません」なんて言ったら

大変なことになる。やはり「方便」としての自分を演じなければなりません。

鈴木:会社へ行ったらねえ。つらいところですね。

玄侑:さしあたり、毎朝、目覚めたときに「さあ、新しい一日が始まった。昨日はもう残っていない」と

自分に言い聞かせてみてはどうでしょう。実際、残っていないのですから。少なくとも、白紙の状態で

一日が始まると考えるのは大事なことですよね。私たち僧侶は、そういう境地を一日という単位

ではなく、もっと細かく一瞬一瞬で味わうために坐禅を組んでいるようなものですから。

科学と宗教の合流?

2015.03.25

今日も、我が玄侑さんとエニアグラムの第一人者で聖心会シスターの鈴木秀子さんの対談から

抜粋させていただきました。

 

鈴木:医療の現場では、お医者さんや看護師さんたちの意識も変わり始めています。まだまだ

生かすための医療が主流ではありますが病院やお医者さんによっては、患者さんが最期の

ひとときを、家族や親しい人たちと穏やかに過ごせるような工夫を始めていますね。

私がよく存じ上げている先生は、病院を改築するときに、臨終の人のための部屋をつくりました。

一般の個室に畳敷きの十畳間が続いているから、大勢の家族が一緒に寝泊まりできるように

なっているのです。

玄侑:それはありがたいことですね。

鈴木:その先生は「人間にとって最も大切な時間は死ぬときだ」と考えていらっしゃいます。

人生最期の時間は親しかった人たちに囲まれ、心おきなく過ごすことが大切だと。どうしても

病気が治らないのならば、最期の瞬間を豊かなよいものにしたいという発想から生まれた部屋です。

玄侑:ほんとうなら住み慣れた我が家で、家族と一緒に最期を迎えるのがいちばんいいんでしょうけれど

、なかなかそうはいかないから。

鈴木:ええ。実際にその先生は、死ぬ前にどうしても家に帰りたいというおばあさんを家に帰した

こともあるそうです。そのおばあさんは末期の喉頭がんで、もう声もでなくなっていたのですが、

筆談で「家に帰りたい、家に帰りたい」と訴えるんですって。だから「一時間だけ」という条件で

息子さんが背負って、先生も一緒に付き添って。

玄侑:それでおばあさんはどんなふうでした。

鈴木:二人だけ家に入って、先生は玄関でまっていらしたそうです。家のなかからはなんの音も

聞こえてこない。しんと静まりかえっていたんですね。二人の間でどんな筆談が交わされ、どんな時間が

過ぎたのか、先生にもわからないそうです。だけど一時間後にふたたび息子さんに背負われて出てきた

おばあさんは、ほんとうに晴れやかな顔をしていたそうですよ。それで息子さんが「すみました」と。

玄侑:ただ二人で並んで坐っていただけかもしれませんね。でも、それが人生の終わりにあたって、

おばあさんが一番必要としていた時間だった。

鈴木:先生がおっしゃっていました。医者ができることは、薬を処方したり注射を打ったりすること

だけではない。患者さん本人の望みをできるだけかなえてあげることだと。

玄侑:私は僧侶であり、一応作家でもありますから、宗教と文学のかかわりにとても興味をもっている

わけですが、もう一ついえば医学とのかかわりですね。医学と宗教はなかなか合流しにくいかもしれませんが

そうした状況も変わっていくのはないかと思うんです。今はまだはっきりした道が見えないけれど、いつかは

やがて合流していくのではないかと。

鈴木:ええ。私もそういう気がしています。

玄侑:人間が病むのは、全人的なこと、精神も肉体も含めたものだと思います。だから、宗教行為がすなわち

医療行為だということもあるし、その逆もありえる。だって実際、誰かに抱きしめられただけで病気が治る

ということもありますから。「癒す空気」とでもいうのでしょうか。そもそも人間には自然治癒力が具わって

いるといいますが、その実体はいまだに厳密にはわかっていないですよね。

鈴木:ほんとうに不思議です。

鬼は悪か?

2015.02.8

鬼が悪なら、徹底的に排除しようとするだろうが、毎年節分には登場してもらい豆まきなどを

愉しんでいる。年に一回だけの訪問を待ち焦がれているのだ。

青森は恐山、賽の河原では子どもたちを追いかける鬼が転ぶようにと、親たちが草を結び

輪っかを作る習わしがある。皆様もご存じのように、子供たちが石ころを積んで遊んでいると

鬼が現われて積んだ石ころを蹴飛ばし、子どもたちをおいかける。

そこで、追いかけられた子供たちは、必ずお地蔵様の袖に縋り、助けてもらうが、また遊んでいると

必ず鬼はでてくる。お地蔵様は鬼が出てこないような根本的な処置はして下さらないのである。

 

尊敬する玄侑さんは、この話しに関し、「これを聞いた当初は、些かショックだったが、やがて

長ずるにおよび、仏教の自然観や人間観に気づいていった気がする。」と仰っている。

 

世界は自分の思うようにコントロールされるべきではない、鬼とは思うようにならない出来事の

全てを象徴しているのである。

自力の限界に他力の風が吹く

2015.01.18

今年最初のコラムになります。

今日は玄侑さんと五木寛之さんとの対談の中から抜粋しました。

私も56年間生きてきて、五木さん、玄侑さんの仰る自力と他力の融合が大切ではないかと

感じています。けっしていいとこ取りではありませんが、自力を極めた末に他力を待つのが

人生ではないでしょうか。

 

五木:今日は玄侑さんが禅宗で、私が真宗という分けられ方がされてるんで、玄侑さんは自力の人、

私は他力の人と一般に思われてるんでしょうね。前に石原慎太郎さんと対談したときも、石原さんが

自力で、私が他力という扱いでした。しかし本当は、そうではなくて、仏教ではもともと「自他一如」

という。

玄侑:はい。そのあたりのことも今日はお話ししたいと思って参りました。われわれが五木さんの

「他力」を読ませていただくと、他力と自力と、どちらがより大切かというような話ではなくて、まさに

「仏教の話」を書いていらっしゃるという感じがしました。坐禅であっても、念仏であっても、自力で

やっているうちはある段階までしかいけない。それが自力ではもう限界だという段階まで達したときに、突然

「他力の風」が吹いてきたと感じる瞬間があります。

五木:はあ、玄侑さんもそうですか。

玄侑:われわれ禅宗の側は、自らを自力だとはアピールしていないんですね。少なくともある程度実践して

みると、誰でもそう感じると思います。道元禅師も「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて

自己を修証するは悟なり」とおっしゃっています。まさにこれこそ自力と他力の分かれ目じゃないでしょうか。

五木:なるほど。私が自分の本に「他力」という題名をつけたのは、あまりにも二十世紀が、アメリカを中心とした

グローバルスタンダードの傾向が強かったものですから。日本人は自力の原則の海の中で溺れそうになっているな

と感じたのです。この流れを押し戻すには、少し極端なぐらいのタイトルが必要かとおもいましてね。

玄侑:一遍上人は念仏の人ですが禅の経験もある。彼の書かれたものを読むと、禅と念仏の融合ということを

考えていますね。禅宗の和尚のなかにも、念仏に走る人がけっこういるんです。「禅浄双修」という言葉もあります。

五木:京都の禅寺の偉い方と話していて、その方が、「いや、最終的にはやっぱり他力やな」なんてぽつりと言われた

ことがあるけれども、自力を極めていくと、そこで見えてくるのだろうと思うんですね。どちら側から見るかと

いうことは大事なことなんでしょう。似ているように見えますけどやっぱり違うところはあると思うんですよ。

玄侑:言葉でたどりつける範囲の世界とそれを超えた世界があると思うんです。言葉で理解できる範囲のことを

おそらく自力というのではないか。しかし、それを超えると念仏であろうと坐禅であろうと言葉が及ばない世界が

訪れる。それを禅でも浄土門でも他力と呼んでいいのではないかという気がしています。

無上

2014.12.28

今年最後のコラムとなります。

一年間、私の拙コラムを読んで下さったかたに感謝申し上げます。

 

最後もはやり玄侑さんの書からです。

「多生の縁」より。松原泰道僧との対談のなかにいいお話しがありましたので抜粋します。

松原泰道僧は、ご存じのかたも多いと思いますが、臨済宗妙心寺派の長老ともいうべき方で

4年ぐらい前に101歳で亡くなられています。私も、ご著書を数冊拝読しておりますが

心ある頭のいいお坊さんとの印象をもっております。

 

「自立」や「アイデンティティ」を求めすぎる現代

玄侑:この頃は子供に「自立しなさい」とか「個性をもちなさい」ということをあまりにも

早くから迫りすぎているような気がします。やはり仏教的な見方からすれば、人間というものは

間柄や関係性でつくられているものですから、「私はこうなのだ」ということをスピーディーに

作り上げることもないと思いますね。アイデンティティなんていうものは、棺桶のふたがおさまった

時に初めて決まるものであって、それまではいろんな自分がいて、どんどん変化するものだと教えて

あげたほうがいいという気がするんですね。確固としたアイデンティティを持ち、何事も即断即決

でき、必要ないものは切り捨てるというような「個性」ばかりを求めすぎている。

松原:なんでも割り切ろうとする考え方。ちょっと怖い感じがしますね。

玄侑:自殺の多さとも関わるのでしょうが、「自分が何者か分からない」と悩む子供たち、あれは

個性がないのではなくて、お前は何者なのか早急に言えと迫られて、言えないだけだと思うんです。

そんなに早く答えを求めなくてもいいと思いますね。

だって、泰道先生は93歳になられて、今なお学び続けるとおっしゃっているわけですから。自分が

何者かという問題は、一生追い求めていくものだし、死ぬ直前に分かればまだいい方じゃないですか。

私が小説に書いた「中陰」も、人が死んでから生まれ変わるまでの、あるかないか分からない存在の

ことです。世の中に分からないことはたくさんあるし、それを分からないと認めた方がいい。

松原:分からないからといってあせる必要はないですね。私は今世で分からなかったら、来世で分かる

ように努めようと思っています。昔、旧制一高の生徒で「人生不可解」と言って、華厳の滝から

飛び込んで自殺した藤村操という人がいますけど、本当は不可解と分かっただけでもすごいことなのであってね。

短い人生で何もかも割り切っていこうということは、傲慢ですね。無知を知ると、自然に謙虚になっていく。

仏教用語では、「無上」と申し上げます。上限がないんです。上がれば上がるほど、大空を上がっていく

ように上限がない。

玄侑:常に途中にあるわけですね。途中ですけれども、途中にある充実感を感じればいいのでしょうね。

雪もまた涼しかりけり~

2014.12.2

曹洞宗の祖、道元禅師の有名なお言葉ですが、私もたいへん好きな言葉です。

 

元来私は暑いのが苦手です。理由は、いくら暑くても、服を脱ぐのには限界があるからで

寒ければ着込めばいいだけの話です。

私は冬場でもよほどのことがないがぎりは、診察室と手術室で暖房はいれません。頭の上から

温かい空気が降りてくる状況ではいい仕事ができるはずがありません。

 

道元禅師の「雪もまた涼しかりけり~」は、人間は”寒い”と口に発すれば、必ず暖を求めにはしります。

が、”涼しい”とおもえば、まだこれぐらいなら頑張れる、という気概につながる。

そういうことを、禅師は仰っているのだとおもいます。

 

特に私は17年間、山陰で生活しましたが、山陰とこちら関西とではそれほど平均気温に差はありません。

こちらでは最近、”今日は寒いですね”が挨拶言葉になっていますが、山陰ではあまりそういうのは聞いた

ことがありません。おそらく山陰の人たちは”雪もまた涼しかりけり”とおもっておられるのでしょう。

中陰(あるいは中有)

2014.11.9

皆様ご存じのように、中陰とは人が亡くなってから49日までの間、すなわち魂が生と死、

陰と陽の狭間に存在している期間と考えられていますが、正確にはこの世での生を終えて

次の身体を得るまでの過渡期であり、そのあいだは身体的な裏付けなしに何らかの意識の

連続体が存在しえる、と仏教は考えています。

死んだら終わりだとか、死んだらすべてが無になる、と思っておられる方も多いでしょうが

古代から現在、未来永劫と葬式や49日の法要や定期的な法事は続けられるでありましょう。

これは取りも直さず、死んだら終わりではなく、魂や精神は存在し続けることを意味しています。

 

現世はせいぜい100年足らずですが、私はこの中陰は何百年あるいは千年単位であるとおもって

います。ですから今世は来る来世への準備期間である仮の状態と考えてもよいかも知れません。

いわゆる俗世ですので、この俗世での出来事に一喜一憂するのではなく、この俗世での準備期間の

あいだに悪いことをせず、正しい精神を鍛え、自分の魂を磨くことが最大に大切なことと思っています。

 

昨今政治家の不祥事や、医者にあるまじき行為をする医者も見受けられますが、こんな短い今世に

おいて、小さな、しょうもないことに尽力するぐらいなら、もっと己の魂をみがいて自分の精神を

高める努力をすれば、必然、世の中がよくなることは自明であります。

 

長い長い中陰をへて、いつか魂・精神は新たな肉体に宿りますが、そのときには、まちがいなく

今世よりもすばらしい精神をもつ人間に生まれかわっていることでしょう。この輪廻を繰り返して

いけば、今世という俗世間も精神的にレベルの高いものとかわっていくとおもわれます。

そうでないかぎりは、永遠に、殺人、麻薬、政治家の不祥事等などのニュースが果てしもなく続き

何の進展・向上もなく、まったく意義のない俗世間がつづきます。

 

最後に皆様には、今生きている今世は、長い長い来世への準備期間である、仮の姿であることを

覚えていただきたいものです。

生きる。死ぬ。

2014.10.19

以前から読みたかった書。僧侶、作家であり医療に造詣の深い玄侑さんと、ガン治療の第一人者で

ある土橋重隆氏の対談形式の「生きる。死ぬ。」のなかで面白い内容がありましたので抜粋し、

私の感想、考えをお話ししたいとおもいます。

 

土橋:「患者さんのため」と言いながら、自分たちは安全な枠の中にいる。国はシステムを維持

するために存在しているようなものですから、実際のところ、患者さんのことなんて何も

考えていないんですよね。

玄侑:お医者さんもシステムに守られているわけですね。

土橋:疑問を持つようになった頃は、システムの中にいることがたまらなく嫌になっていました。

何のために医者をしているんだろうと・・。なにしろ山分けシステムの中では患者さんは

国民じゃないわけですから。

玄侑:医者は国民だけれど、患者は国民じゃないと。

土橋:医者は患者さんを気にしないんですよ。自分の手術で亡くなったら困りますけど、

そうでなければ生きていても死んでしまってもそれほど責任を感じない。国のシステムに

従うことが、まず大事なんですね。

玄侑:前の立場では言えないこともあるんじゃないですか?

土橋:そうですね。システムの中では、医者どうしでトラブルを起こさないことがまず大事

なんです。患者さんのためになることであっても、他の医者の立場が悪くなることは言わない。

そういう仲間意識がすごくある。

 

この書のタイトルのように患者さんは「命がけで」病院に来られます。果たして医者は命がけで

医療を行っているのか?私にはそうは思えません。何かあっても医師会が守ってくれる、医師会の

顧問弁護士が付いている。そういった甘えが少なからずあるように思えます。

だから真剣勝負の医療ができないのではないでしょうか。

私は15年間所属した医師会を自主退会しました。嫌気がさしたからです。

私が感じた医師会の先生方はおおむね真面目な立派な先生ですが、ただ一人医者にあるまじき行為を

している者がいて、そいつを辞めさせるよう医師会長に求めましたが、全く動いてもらえず

そんな枠の中にいるのが、人間として、とても嫌になったからです。

守ってくれるバック(医師会)もありません。だから命がけで医療を行うのです。

よく、「他院で手術してもらったがよくならない。」とか「”手術をしてもらったが見えない”と言った

ところ後になって、あなたは’違う病気’があるから見えないのです、と言われた。」と仰って来院される患者さん

がかなりたくさんおられます。’違う病気’を見落としているのは自明です。

私は患者さんを第一に考えますので、前医の利益・不利益は考えずに、ありのままに正直にお答えする

ようにしています。もし、訴訟になるようなケースであっても、私が診察し、見たこと感じたことを

正当にお話するように努めています。

それが真剣勝負の医療ではないでしょうか。

無常でないもの・・

2014.10.7

子どもの頃、楽しいこと、うれしいことが永遠に続けばいい、とおもっていました。

が、55年生きてくると、人生、楽しくうれしいことより、苦しいことの方が多い

ことが分かってきます。家族内での人間関係、社会での人間関係も無常ですし、

事業の繁栄も永遠ではなく浮き沈みがあります。これぞお釈迦様の仰る諸行無常であります。

 

私は、被災地東北を陰ながら微力ながら応援させていただいています。

”フクシマ”でのセシウム137は半減期が30年ですが、プルトニウム239は2万4000年

プルトニウム244は8000万年だそうです。8000万年たって半分になるというのは

これはほとんど諸行無常に反します。

わたしたちの「苦しいことはいつまでもつづかない!」という精神的支柱が放射能に関しましては

言えないのです。「いつまでも同じじゃないよ。最悪じゃないよ。」と言えないのです。

 

市場原理、効率主義、さらに集約的にシステマティックに世の中を動かしていくのがいいという

社会的な流れのもと生まれた原発は、諸行無常という人間が生きていく上での屋台骨を粉砕してしまう

悪魔の存在なのです。

人類が生み出した原発、人類が尻拭いしなくてはなりません。

わたしたち一個人では何もできません。政府、安倍総理が早くこのことに気づいて原発を即刻

廃止すべきとおもいます。

 

東京オリンピックなどで浮かれている場合ではないのです。そのお金を復興に使うべきなのであります。

人間だれしも、臭いものには蓋をして、楽しいことに浮かれていたい。しかし”フクシマ”はまさに

現在、現実なのです。

人間が他者をおもいやる心を信じたいし、人類の良心と叡智が信じるに値するものであってほしい

と心から願います。

 

最後に、政務調査費という名目で血税を懐に入れる議員たち、静粛な討議の場である議会で

真摯に報告している女性議員をスケベ心だけでやじるバカオヤジ議員。

貴様らが国を堕落させていることがまだわからんのか!

 

慈悲とは

2014.09.13

玄侑さんの書「慈悲をめぐる心象スケッチ」のなかに非常に共感できる文言が

ありましたので抜粋してみました。

 

慈悲というのは行動の規範ではないと、以前に述べた。

それなら何なのか、というと、お釈迦様は瞑想時の心の赴かせ方とし提出したと、申し上げた

はずである。むろん今でもその考えに変わりはない。そのような瞑想を、すべきなのだと思う。

しかし一方でそれは、ヒトという生命体が本来持っている能力なのではないか、とも私は思う。

その発現を促す方法として、瞑想が勧められたのではないだろうか。

思えばヒトは、言葉を覚える以前、瞑想のような時をずいぶん持っていたような気もする。

そこでは突出してはいないが好意のような感情が世界ぜんたいを覆い、「いのち」はそのままで

安らいでいられた。何も足りないものはなく、何も余分はなかった。もしかするとそのような

幼い時、私自身も慈悲を発散し、他者にも慈悲を促していたのかもしれない。むろん幻想かも

しれないが、私は最近、慈悲とはそのようにからだから自然に放散する協調性のような

気配ではないかと考えているのである。

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