手術は私がするけれども、いやすのは神だ。

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手術は私がするけれども、いやすのは神だ。

2016.03.14

これは、アンブロワーズ・パレというフランスの有名な外科医の言葉です。

悪いことろを手術した後、治っていくのは患者さんの身体の生命力という意味だとおもいます。

眼科領域で、よく行われている白内障の手術においても、完璧に手術ができていても

後で合併症が出て、見えなくなることもあります。

確かに手術をするのは私たちですが、あとの経過は神の領域なのです。

いい経過が得られるようにわたしは、手術の前日には必ずお経を唱え、身心を整え、真摯に

手術に立ち向かうよう心掛けています。

 

セリエの遺言

2016.02.24

養老孟司さんは、東大医学部出の昆虫好きな作家として、皆さんよく御存じだとおもいます。

私も大好きでよく書を読ませていただくのですが、養老先生はただ東大出の解剖学者であるだけでなく

書および考え方の根底に仏教の思想が流れているところがわたしは好きです。

今日は養老先生著の「かえがえのないもの」から抜粋させていただきました。

 

子どもの将来を考えるときは、世の中にあまり合わせないほうがよいのです。大学の教師がよく言っている

ことですが、就職が典型的な例で、若い人に選ばせると、そのときに景気のいい企業に入りだがります。

私が学生のころもそうでした。しかし当時は景気のよかった会社も、今ではどうしようもなく不景気なのです。

40年、50年先など読めません。

いちばんいいのは、どういう時代になっても人間のすることを考えてみることです。これなら大体わかる。

何がつぶれて何がつぶれないか、つまり流行とは何かということが何となくわかってくるはずです。

私自身何となく知っていたことですが、要するに「身についたものだけが財産だ」ということです。

私の母は極端な人でしたが、そのことを私が医者になる前に話してくれました。ハンス・セリエというオーストリア

生まれの医者がいます。ストレス、ストレス症候群という言葉はセリエがつくったものです。

この人はウィーン生まれで、お父さんがオーストリアの貴族でした。しかし第一次世界大戦が起こって

オーストリア・ハンガリー帝国が分解してしまいます。今の小さなオーストリアになってしまった。セリエの

お父さんは、先祖代々持っていた財産を失いました。亡くなるときに息子に言った言葉が、「財産というのは

自分の身についたものだけだ」です。それはお金でもないし、先祖代々の土地でもない。戦争があればなくなってしまう。

しかし、もし財産というものがあるとしたら、それはお墓にもっていけるものだ、と。

お墓に持っていけるものというのは自分の身についたものです。家ももっていけませんし、土地もお金も

持っていけません。自分の身についた技術は墓に持っていける、だからそれが自分の財産だというのです。

かけがえのない経験、かけがえのない財産と言われるものです。

他人の過ちは見るなかれ

2016.01.6

今年最初のコラムです。

お釈迦様のお言葉ですが、確かにその通りなのですが、実践するのは難しいお言葉ですね。

 

智慧ある者は他人の過ちや悪行を探すことには関心がない。

彼が心を砕くのは・・自分自身が過ちを犯さなかったか?

善行をしているか?

悪行はしていないか?・・といったことである。

人の過ちは見えるが、自分の過ちには気づきにくいもの。

ともすれば籾殻を吹き散らすように己の悪を雲散霧消させ・・、

いかさま賭博師のように己の落ち度を覆い隠そうとする。

他人の過ちを見つけては腹を立てている人は、いたずらに煩悩を増やし

浄化の道から遠ざかる一方だ。

虚空に道はない。間違った修行をしていては悟りに到達できない。

多くの人はうわべだけの事物を追い求めるが、悟りを得た智者は

何が真かを知っており、虚妄に惑わされることはない。

2015.12.10

今回も、我が玄侑さんの書から引用させていただきました。

 

現代的に考えるなら、すべての「苦」は脳が感じているといえるだろう。あるいは「心」が

といってもいいが、いずれにしても釈尊をいう人は、身心のさまざまな実験を通して、その

発生から消滅に到るシステムを探求した人だった。

本質的な解決法は、むろん修行を通して心の涅槃を実現することだが、それはなかなか

難しいから、釈尊は別な手も使っている。それが「一切皆苦」という認識だろう。

苦の滅除のために、一般人にまず有効なのは、「苦しくて当たり前」と思い込むことだ。

どんな思い込みもよくないのは承知しているわけだが、脳がどんな思い込みも捨てるなど

という事態は奇蹟に近い。ならば「苦」と思っておけば「思ったとおり」なのだから

随分緩和されるだろう、ということだ。

「生」も「老」も「病」も「死」も苦。そして愛する人と別れる愛別離苦、嫌な人にも

会わなくちゃいけない怨憎会苦、求めても思い通りには得られない求不得苦、そして健康で

あるがゆえの五蘊盛苦。これらをすべて併せて「四苦八苦」というのである。これだけ

苦だと思い込んでおけば、それほどでもなかったら儲けものということだ。

 

私も若い頃は仕事の疲れ、すなわち苦を、飲酒や房事で発散させられると思い込んでいたことが

あったが、歳をとるにつれ、苦を楽では消滅させられないことがよく分かってきました。

苦は苦として受け入れないといけない。そこで、苦が当たり前を脳にインプットさせると

生き方が優しくなります。

医師を択び、薬を用い、老いを養う

2015.11.25

我が玄侑さんが江戸時代にタイムスリップし貝原益軒先生と談話した書「養生事始」より抜粋しました。

 

益軒先生もおっしゃるように、お医者さんはよくよく選ばなくてはならない。「およそ大医たるには

先ず儒書に通ずべし」、あるいは「易を知らざれば、以て医をなるべからず」などという言葉も

あるらしく、要は医師をいう専門職をいえども人間を総合的に相手にするわけだから、総合的な

学問が必要だというのである。

思えば医学も薬も日進月歩。「旧説になづみて時の変をしらざる」も良医とは言えない。

総合的な学問だけでなく、かぎりない探求心と理解力、さらには実践力が求められるわけだから

これは生半可な仕事ではない。

しかしお医者さんは、元氣でなければならない、と私は思う。これはタフでなければ耐えられない

という意味だけでなく、病気もうつるが元氣もうつるからである。お医者さんはタフで明るく

しかも総合的な教養があって魅力的、そしてなにより私が求めたいのは、生命という不可思議な

現象に対する謙虚さである。

治癒という生命の自然現象を、適切に促すのがお医者さんだとすれば、お医者さんには

自信過剰になってほしくない。個別のケースにおいて、奇跡が起きる可能性も信じるほどの謙虚さを

求めたいのである。しかし自信過剰はいやだが自信がなさすぎるのも困るわけで、この辺の

兼ね合いが非常に難しい。ともあれ、一人の人間として敬意をもてるお医者さんであれば

治療効果も高まるはずである。

「人身、病なきことあたわず」と益軒先生はおっしゃる。だから「医をまねきて治を求む」るのは

誰しも必ず経験することだが、その際、上等の医者は「みだりに薬をほどこさ」ない。薬は毒を思い

なるべくなら飲まずに済む工夫が必要だろう。

私はからだに苦痛がある場合の緩和剤などは、我慢せずに積極的に飲むべきだと考えている。

「我慢」は仏教の「七慢」の一つ。自分の考え方にこだわる傲慢さほどからだに悪いものはない。

医師に求められる「臨機応変」の力が、養生する患者自身にとっても大切だということだろう。

 

「もっと生きたい」は危険信号

2015.10.24

上座仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラ氏と我が玄侑さんとの対談から抜粋させて

いただきました。

 

長老:死に臨む人に宗教は何が出来るんでしょうか。人は勝手に死ぬんだからねぇ。

玄侑:(笑)

長老:死ぬときは一人で死ぬんだから、宗教者であろうが、科学者であろうが、医者であろうが

何もできない。そこは分かってほしいんですね。だから元気に生きている間は、自分がどのような

生き方をしているのか、ということは勉強しておかないと。もう末期だと言われてからでは、

間に合わない。これは私の考え方なんですよ。死にそうなときになって、みんな死について興味を

持ったりする。それじゃぁ準備が間に合わないんですよ。例えば大学に入りたいと思って、受験が明日だと。

では勉強するぞといっても、もう駄目なんです。二年間くらいちゃんと勉強してなきゃ受験に合格しない

でしょう。人生はもっと厳しいんだから。我々はずっと人生を勉強する、生き方を勉強する。何のために

いきるのかというのを理解する、そこで死ということに答えが出てきますよ。だから宗教に出来ることは

やっぱり、特に初期仏教にできることは、どのように生きるべきかを教えることなんですね。

やり残したことがないように生きたならば、もう死ぬしかないんです。もっとやりたかったことがある、

死ぬのは悔しい、惜しい、もう一年でも一日でも生きていられれば、といった気持ちがあるとしたら、

どこかおかしいのです。生きてきたことに満足していないのです。このような精神状態だったら、

楽には死ねません。死は苦しいことになる。

玄侑:やっぱり長老とすればお釈迦さまの立場と一緒ですよね。

長老:一緒なければいけませんねぇ。坊主だもの。

玄侑:そんなこと考えている暇があったら一所懸命生きろっていう。

長老:そうそう。

玄侑:死んだらどうなるの、なんて言ってないで。(笑)

長老:十分正しく、しっかり、文句なく、自己嫌悪にならないような生き方をしたんだよと、そして

次のステップは死ぬことしかないんだよと。ですからベストな死って何でしょうか。「では、さよなら」

といって死ねることがベストな死なんです。息子に会いたいとか、死ぬ前にウナギを食べたいとか、

それはもう駄目なんです。すごい執着を持っているんだから。もう十分食べてきたんだから食べ物

なんかいらん。息子にはさんざん苦労させられたから放っておこう、私は穏やかにいたいんだ、さよならと。

それが完全な満たされた死に方なんですね。そういう人々は決して悪いところには生まれ変わりません。

人はなぜ生きるか?

2015.09.20

この世において絶対と言えることはそう多くはありません。

ただ、生まれてきた人が絶対死ぬということだけは間違いありません。

じゃあ、なぜ必ず死ぬと分かっている人生を人間は与えられるのでしょう?

皆さん、こんなとこを考えられたことはありませんか?

私はいつもこのことを疑問に思い、考え、生きています。

その答えを得るために数百冊の仏教書を読みましたが、明確な答えは得られませんでした。

お釈迦様でも弟子たちの質問には答えておられません。

ただ、この現世は来世に向かうための準備期間、仮の姿だということがすこしずつ

わかってきました。

現世における金銭欲、名誉欲など物質的なものは、すべて仮の姿であります。

昨今の政治家や医者をみていますと、利他そっちのけで、名誉欲だけにしがみつている

人をよく見かけます。仮の姿である現世における、ただの通行券である金や名誉・・

こんな通行券は来世にいくときには、現世に置いていかなくてはなりません。

こんな、すぐにいらなくなるものにしがみつくよりも、もっと大事なことがあります。

利他を重んじ、魂の世界である来世で立派に暮らせる準備を、現世で行わなくては

なりません。現世では物質的なものに囚われず、自分の魂を磨くことが大切です。

魂の汚れた生き方は罪です。

現世で今、あなたが見ているものは、すべて幻なのであります。幻に囚われることほど

意味のないことはありません。

魂は幻ではありません。歳を取り、老後に向かうにあたって、この魂を磨くことこそが

「人はなぜ生きるか?」の答えではないでしょうか。

思想~

2015.08.15

臨済宗、玄侑宗久さんの書からいろいろな知識・雑学がえられましたが、今日は解剖学者で作家の養老孟司先生の

書から引用させていただきました。

 

じゃあ、なにがオウム事件を引き起こしたのか。個人的には私の疑問はつねにそこに戻る。だからそれは、「われわれの

思想」の問題なのである。われわれがある思想を持っているからこそ、オウム事件が発生する。もっとも、世間の

人はそう考えないためのまず第一の予防策として、「自分には思想などという立派なものはない」「そんなものは

だれか偉い人が持つものだ」という思想で理論武装する。思想がなければなにがあるのか。そう尋ねると、「目の

前の現実がある」と答える。現実とは、その場合、お金であったり、不動産であったり、人事つまり課長とか

部長とか社長だったりする。お金は紙切れあるいはコンピューターの中の数字である。不動産とは、紙に書かれた

権利書である。課長や部長や社長に至っては、部外者にとってはまったくどうでもいい、内部組織の約束事にしか

すぎない。私個人にしてみれば、、右のようないわゆる「世間の現実」とは、むしろきわめて抽象的なものである。

そうした抽象を信じることを、私はその人の思想と呼ぶ。確固たる思想を持っているのは、その意味では私の

ほうではない。世間の人々なのである。人事やお金の方がよほど抽象的ではないか。そこでは考えというより、抽象

や現実という表現が逆転しているから、おかげで説明がいつでも厄介なのである。

私は30年、人体を解剖してきたが、あれは立派な「現実」であろう。今は毎日、虫を解剖しているが、これも

ふたたび立派な現実である。実際に目の前にそのものがある。少なくとも社長や部長、あるいはお金よりは確実な

現実だと、私は思っている。世間の人がそう思っていないこと自体が、日本の世間には立派に思想があることの

なによりの証である。なにせまったくの抽象的な存在と、それを成り立たせている法則、つまり世間的習慣と

法とを、頭から信じているからである。敗戦が私に示したことは、そういうものが抽象だということだったのである。

少なくとも今の学生は「自分には思想などという立派なものはない」と素直に信じている。しかしそれこそが

現代日本の代表的思想であることに気づいていない。思想とは、考えるだけではなく、同時に信じるものである。

信仰の中身はふつうは前提に入ってしまうから、それについて考えることはない。そういう学生に私は「昼飯に

何を食うか」と尋ねる。「カレーを食べます」と答えた学生には、「なぜか」と訊く。「好きだから」と学生が

答えるなら、「あんたは「昼飯には自分の好きなものを食う」という思想を持っているんだよ」と教える。

そう教えれば、「カレーが好き」「カレーがうまい」という、実感だと一見思えるものが、実は思想と関連することが

わかるであろう。

その意味で思想を持たない人はいない。若い時から私はそう思っていたから、丸山真男先生の「日本の思想」に

「日本に思想はない」と書いてあるのを読んで、その時は仰天したのである。そのうち丸山先生のいう「思想」

の意味が少しわかったような気がしてきた。そもそも思想が西洋由来のものなら、「日本に思想はない」で

当然かもしれないのである。さらにいうなら、まさに「日本に思想はない」というのが「日本の思想」なのだから

丸山先生のこの書物は、表題と中身がまことにつじつま合っているというしかない。その意味でも丸山先生は

正しかったのである。

荘子ー言葉の限界

2015.07.16

荘子は、反:孔子、親:老子のスタンスの、言葉を駆使した論客だと思っていましたが、

そうではなかったようです。

 

玄侑さん著「荘子と遊ぶ」を読んでいまして、あらたなことがわかりました。

 

荘子の九割は「寓言」つまり他事にことよせて書かれた物語で、七割は「重言」これは古人の言葉を

借りて重みをつけた話。そして残りはみな、し言、つまり底の丸い盃が注がれた酒の量に従って

自在に傾くように、相手の出方次第で臨機応変に対応していく言葉だという。単純に計算すれば

分かるが九割と七割とその残り、というのは重なり合ってこそ可能な数字である。

中略

こうして寓言、重言、し言と並べてみると、荘子がいかに論争など望んでいないかが分かる。

重言の説明として「言を己むる所以なり」とあることからも判るように、言そのものが議論や論争の

素と捉えられている。「言わざれば則ち斉し」いのに、それが斉しいと言葉で説明されると斉く

なくなってしまう。言葉そのものに斉しさを離れる性質があるというのだ。寓言や重言やし言とは

言葉のもつそのような本質的欠陥を、なんとか最小限にするための方法論だといえるだろう。

言葉というものには、どうしても主観が混じる。「自ること有りて可とし、自ること有りて不可とす。」

と荘子は云うが、つまりどんな判断も、自分なりの勝手な理由で可否を決めて言明する。だから

荘子は、主観的な表現をできるかぎり避けたのである。これが「荘子」における表現の基本的な

スタンスと云えるだろう。

利他に生きる~

2015.06.25

いつも玄侑さんの書から、いいお言葉を引用させていただいておりますが、今日は立派な生き方を

しておられる友人のお話を紹介させていただきたいと思います。

 

10年一昔以上前のことらしいですが、ひどい鬱病から幻覚・幻聴をきたし、気が付いたら包丁で首を

切っていた。血が体の半分ぐらい流れ出て、それで死んでいても不思議ではなかったのに、奇跡的に助かった。

さらにひどい鬱病のために精神科医から最低1年の入院が必要だと言われた。ただ、毎日強い睡眠剤で眠らされて

ばかりいる状態をみた、友人の奥様がこのままでは廃人になってしまうと思い、念書をかいて、たった1週間で

精神病院から引っ張り出してきたとのことです。

この決断が正しかったのでしょうね。精神科治療以上の奥様の献身的な頑張りがあって、友人は比較的早期に

社会復帰できました。

友人曰く、「あの時死んでいてもなんら不思議ではなかった。もう一つの命を頂いたと感じているから、これからは

自分のためではなく、迷惑をかけた家族のため、社会貢献のために、利自は捨てて、利他に生きているんだ。」

 

私は、人間は絶対的なものではないと思っていますので、人間を目標にすることはありません。もちろん、この

友人を目標にすることはありませんが、友人の言葉、思いは目標にしたいと考えます。

私も還暦に近づいてき、戦時中なら、平均寿命をとっくに超えています。ここまで、一生懸命仕事に頑張れたのも

患者様、職員、家族のおかげだと思っています。そろそろ、煩悩・我欲を減らしていかないといけないと思います。

今世において、物質的なものの最たるものは、肉体とお金です。来世では、物質的なものは必要ありません。この世に

肉体とお金はおいていかなければなりません。その準備のため、物質的なものは少しずつ減らし、来世の主体である

魂を磨いていかなければなりません。

ただ、友人のように、今世では社会貢献は続けなければなりません。

仕事での社会貢献は当たり前ですが、だいぶ以前より続けている、毎月のバングラディッシュの子供の支援、年に数回の

盲導犬協会やユニセフや点字図書館、東北のボランティア団体の後方支援は可能な限り継続していきたいと考えて

おります。

これが私の、社会への恩返しです。

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