自己満足!

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自己満足!

2016.11.13

東北大震災は地震・津波・原発事故の三重苦ではなく、これに風評被害・風化を加えた

五重苦といわれています。

こちら関西にいますと東北地震はもちろんのこと、最近の熊本地震ですら風化している

と感じざるを得ません。

わたしは東北地震発生直後に、アパレル関連の店を駆け回り、すでに春物に変わろうとしている中、

残っている冬物をありったけ買い込み、現地に送りました。もちろん少ないですが寄付もさせて

いただきました。

普通ならこれで終わっていたはずで、自分の中では風化していたのでしょうが、なぜか

東北の地震においては、風化させてはいけない、何らかの形で、支援を続けていかなくては

ならない、という考えをもつようになりました。

そんな時に出会ったのが、福島で行き場のなくなった犬・猫(被災犬・猫を含む)を里親が

見つかるまで命をつないであげるボランティア団体の方でした。

「さいごまで家族の会」の精神に共感したわたしは、殺処分の決まっていた老柴犬の里親に

なり、1年半でしたが、さいごまで家族として接しました。福島からきたので「フク」と名付けて

本当にいのちをつなぐ最低のことしかしてやれませんでしたが、家族として見送ってやれました。

わたしのところは、現在、多頭飼いなので、今は、新たな里親になることは出来ませんが、

寄付などの後方支援は継続してさせていただいております。

こういった行為は傍からみると自己満足の世界ではありますが、自己が満足できないことで

他者を幸せにすることはできませんし、他者を幸せにするためには自己満足が必要条件なのでは

ないでしょうか?

これからも人のためになる、自己満足の行為を続けていきたいと考えています。

 

「息の発見」より

2016.10.27

今月は、五木寛之さんと玄侑さんの対談の書「息の発見」より抜粋させていただきました。

考えてみますと、読経・坐禅・瞑想において大切なのは息の使い方ですし、我々の日常生活においても

大事なときには息を整えます。皆様にも是非読んでいただきたい書です。

 

五木:私は、この六十年間、日本人は物質的恍惚状態を追いもとめるあまり、息というものに対して

あまりにも無関心になってしまったと思っているんです。その揺りもどしのように、いま呼吸法が

ブームですね。そうするとこんどは呼吸法というものを、たとえばスポーツセンターに行ってトレーナー

の指導を受けて、どっちかの上腕の筋肉をふやすとか、下半身を強化するといったような、アスレチック

トレーニングかなにかのように考えてしまう。

でも私は、「息の発見」というのは、身体的技法の発見ではない。そうではなくて、息をすることは、

こんなに嬉しいことだったのか、という実感をとりもどすこと、いのちへの気づきだと思っているんです。

たとえば、いのちにとって、吐く息が大事なのか、吸う息がだいじなのか。あるいは人は死ぬときに

息を吐いて死ぬのか、吸って死ぬのか、こういうことを考えるだけでも、発想の大転換だと思うんですね。

玄侑:瞑想も、いのちへの気づきといえますね。

五木:瞑想というのは、いちばん簡単にいうと、だれでも息をしている。だれでも無意識に呼吸している。

それを意識して、さらにそれを意識しないようにする、という作業なんですね、考えてみると。

玄侑:意識した上で、忘れるんですね。意識しないと方向性が出ません。でも最終的には、それを

忘れるほど三昧にならなくてはいけない。

五木:そういうことなんでしょうね。

玄侑:おそらくそれは、東洋思想にある程度共通した流れなんだと思いますね。混沌が二つに分かれ、

さらに細分化してできあがった分別を、こんどは「不二」とか「無」にもどそうとする。

坐禅もそうですけど、なんでこんな不自然なことをするの?と思うことがありますけれど、それは

自然になるためだよ、ということになるわけです。自然になるのに、不自然なことをやらなければ

ならないのが、たぶん人間なんだと思いますね。

不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ

2016.09.19

今日も玄侑さんの「荘子」より抜粋させていただきました。

 

これはまさに、未来を憂えない生活の指針だと言えるでしょう。道徳を掲げ、一定の目標を

現実に引き寄せようともがくのではなく、とりあえず現実を容認し、それに順応していく。

荘子に言わせれば、予測とはまさに人為であり、人を不自由にするものです。むしろ不測に

立ち、何も予測せず無心でいることが一番強いのです。

このことが最もはっきりと分かるのが武道の世界です。柔道でも剣道でも、試合で相手と

対峙した時、相手がどんな動きをするかシミュレーションするよりも、無心でいるほうが強い。

予測と違った動きをされた時の反応の遅れは致命的です。何も考えていないというのが、最も

速やかに対応できる状態であり、それが強さになるわけです。

「不測に立ちて無有に遊ぶ」。荘子によると明王はこれで国を治めたと言いますが、もちろん

実際の政治においてはありえない考え方でしょう。政治の仕事とは予算を立ててそれを執行する

ことです。予算を立てるということは、まだ起きていないことを予測し、実現の計画を

立てるわけです。そこで、「不測に立ちて無有に遊ぶ」を実践することは難しい。ただ、

個人においては、考えてみる価値は充分にあるのではないでしょうか。今の日本では、

仕事でも家族のスケジュールでも、誰もが計画を立てすぎているように感じることが

あります。いろいろなことがあまりにも細かく決まっているため、氣で感じるとか、直観に

導かれるといった機会がないのではないでしょうか。

「無有に遊ぶ」に込められた意味は、未来はここにはないのだから、「ないという今を遊ぶ」

ということです。多くの人は、今日やるべきことが終わると、明日やることをつい引き寄せて

しまいます。「明日できることは今日やらない」という強い信念がないと、人間は深くは

休めない。「無有に遊ぶ」とは、忙しい現代の私たちにとっても優れて大事な教えなのです。

死んだら「私」はどうなるの?

2016.08.31

今日は玄侑さんの著「やがて死ぬけしき」から抜粋させていただきました。

 

死後、私というまとまりははたしてあるのだろうか。これはたいへん意見が分かれる点です。

死後のあれこれの中で、このことがいちばん気になるという方も多いのではないかと思います。

これについて、かって柳田國男と折口信夫のあいだに大論争がありました。柳田國男は死後も

個人というまとまりを保っていると考えました。しかし折口信夫はどちらかというと老荘思想

に近い考え方ですが、死後は集団化・集合化する、個性というまとまりはもたない、と

考えました。このへんの考え方の違いで死後のいろいろな見方が生まれてくるのだと思います。

私としては、「私」というまとまりのまま死後にも存在するのだとしたら、成仏していないのではないか

と見ます。成仏、つまり「仏に成る」わけですが、「ほとけ」という和語じたいが「ほどける」に

由来すると思われます。神は結ぶもの、発生するというのは結ぶということです。結んだものは

ほどけます。そうすると、いったんほどけてから集合体になるという考え方のほうが自然な

ような気もします。あるいはほどけてエッセンスに分かれる、というのもアリかもしれません。

しかし一方で、死んだあとまで個性を保っていてほしいという考え方が生まれるのもわかります。

柳田國男にすれば、人は死んでも浄土のような遠い場所に行ってしまうのはなくて、あくまで

「あの人」のまま、そのあたりにうろうろしているのですね。それが民衆の感情に近いという

わけです。

一方の折口信夫の考え方は、むしろ民衆の感情の先にある宗教的認識のようにも思えます。

たとえば沖縄のニライカナイのような場所での在り方を追求した結果ではないでしょうか。死んでから

行く場所は、生まれる前にいた場所にも思えます。

 

皆様も死後の世界を考えたことはおありだとおもいますが、宇宙の果てを想像するよりも

死後の世界は難しいようです。

日本人は無宗教と言われていますが、葬式や法事はせっせとやります。ということはとりもなおさず

魂の存在を信じているからなのでしょう。そして日本は例外を除き、火葬です。ということは

死んだら魂は身体からはなれているので身体はもういらないということでしょう。

この状況からするとインドの輪廻思想が一番正しいのかもしれませんね。ただその魂の乗っかかり方が

問題で柳田國男さんのような「まとまり」で乗っかかるのか、玄侑さんが仰るようにエッセンスに

分かれて乗っかかるのか、それはわたしにも想像がつきません・・

薫風

2016.07.29

玄侑さんの「四季の公案」の中から抜粋させていただきました。

 

私たちは、目標を次々に設定して、それが叶ったときこそが幸せだと思っています。けれども

、願いなきことーこれが、最高の幸せではないかと思います。何か目標をもっていると、人は

熱くなるんです。「ねばならない」ということが多いと、蒸し暑いし風通しがよくない。

見る目が何色かに染まっていると、ものがちゃんと見えてこない。目標に向かって燃えていると、

極端に自分の都合によってものを見ているので、いい出会いのご縁がいただけないんです。

願いをもたず、いつもニュートラルな状態であれば、どんな出会いもちゃんと向き合う

ことができ、そこから何かが生まれていきます。ある意味で「願い」というのは、頭で

考える人為的な思惑なんですよ。「願い」をもつと、「こうであってほしい」という

前提条件を抱えることになるわけです。

そうなると、さっと応じられない。自然現象がくれるいろんなチャンスを逸してしまう。

荷物を大切に抱え込んでいるとき、上から柿の実が落ちてきたとするじゃないですか。

荷物を抱えているから、パッパッと掴めないし避けられない。ぼこぼこにぶつかってしまう。

後生大事に抱えているものが、対応力をいちじるしく落としてしまうんですね。

そもそも、自分の思惑なんてたいしたことはない。思惑通りにしか物事が運ばないという

ことほど、面白くないものはない。

人生は、思惑を超えたことが起こるから面白いんです。そこから、思わぬご縁がいただける

のです。だから、風のほうに合わせればいい。「風まかせ」「のらりくらり」が最も

素晴らしい。

そうすれば、思わぬ突風や逆風がやってきても、それもすべて薫風と受けとることが

できるはずですよ。

老いによる喪失は、逃れようのない自然

2016.06.30

今月も我が玄侑さんの著「ないがままで生きる」より抜粋させていtだきました。

 

禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師」と呼ぶ。なかには二十代、三十代からそう

呼ばれる人もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」である。

なにゆえここに「老」という文字を使うのか、考えてみよう。

仏教は人生上の苦しみを、「生・老・病・死」と分類した。生まれること、老いること

病むこと、死ぬことである。

一方、人だけでないあらゆる物の発生から死滅までの変化は、「成・住・壊・空」と

表現される。発生、継続、喪失、そして空っぽ、ということになるだろうか。

ところで「老」とは、後者の区分では「住」に当たり、生き続けている状態のことである。

生き続けていると、いろんなことが起こるわけだが、「老」は単独では意識しにくい。

昔から、老人の年齢規定は、五十五歳、六十歳、六十五歳と恣意的に変更されてきた。

つまり年齢そのもので「老」は定義できず、大抵は、「病」や「死」を垣間見ることで

ついでのように「老」が意識される。ある種の喪失体験として「老」は認識される、

と考えたほうがいいだろう。

 

目はかすむ 耳に蝉鳴く 歯は落ちる 雪を戴く 老の暮哉

 

ずいぶんひどい歌だが、事実だから仕方がない。

要するに人は、若い頃に獲得してきたものを「老」とともにどんどん喪失していく。

それは逃れようのない「自然」である。

より良く生きるためにガンが現われる

2016.05.30

今日は、玄侑さんと外科医である土橋重隆氏の対談「死と闘わない生き方」から抜粋させていただきました。

土橋氏は切るだけの外科医ではなく、その仏教的な背景から、ホスピス、心のケアを重視されるお医者さんです。

 

土橋:低体温と低酸素・・体にとってはすごくストレスの多い状態ですよね。こうした状態が続くとミトコンドリアの

働きが鈍り、細胞分裂をうながす細胞の働きを過剰にさせてしまう、その結果できるのがガン細胞であると。

玄侑:ええ。だとすれば、自分の体の変化に適応しようとして、必死に頑張っているのが、ガン細胞ということになりますよね。

土橋:生きていくなかで、必要があってそうなったという・・。

玄侑:どちらにしても敵じゃないわけです。白血球でやっつけるものでも、せせらぎで流してしまうものでもない。

土橋:確かに。どちらにしてもひどい扱いを受けてますね。

玄侑:それよりも大事なのは、やはり環境というか、生き方ですよね。たとえて言うならば、ひねくれた生徒が教室の

片隅にいるわけですよ。そこにちゃんと理解をもったまなざしを向けてやると、そんなに悪させずに済む状態に戻るというか・・。

土橋:わかります。更生するわけですね。

玄侑:そういう気持ちでガンに接しないといけないんじゃないか。排除しようなんてもってのほかで、「ひどい環境に

して悪かったね」とお詫びから入るしかないんじゃないか。最近そういう感じがすごくするんですよね。

土橋:これまでの自分を酷使してきたような生き方を、何らかの形でチェンジする。その結果、ガンが増える環境が

改善されていく。

玄侑:その結果、末期であっても治ってしまうことがあると・・。

土橋:そうですね。こうした生き方の問題に気付いた人が治っていくというか、患者さんを調べていくとそういう

症例は結構ありますね。ただ、私はもう少し進めて、「ガンは長生きするために存在している」と感じるんです。

玄侑:・・長生きですか?

土橋:生命には、生きたいという本性があると思うんですね。死にたい生命なんかないわけで。一つ一つの細胞に

宿った生命がもっと生きたいと思っている、ガン細胞だってそうだと思うんです。生きたいと思ってるはずなんです。

玄侑:たぶんそうでしょうね。でもそれが、全体としての長生きとどう関係するんですか?

土橋:ガンになることで、ある程度、時間の余裕ができますね?脳血管障害などとは違って、最低でも数か月

とか数年という余裕があります。自分の生き方を見つめ直す、更生する時間が用意されているわけです。

玄侑:ガンになることで?

土橋:ええ。だから、適応現象という表現よりも、私はガンは必然性をもって現われている、という感じがする、

そういうイメージがあるんですね。

玄侑:なるほど。

土橋:必然性があるというのは、もちろん、死ぬための必然性じゃなくて、生きるための必然性。体全体から見ると

そういう必然性をうながす働きをガン細胞は持っている。つまり生命を長生きさせようとしているのです。

玄侑:間違って生まれたものでは、もちろんないと?

土橋:教室から一人の悪い生徒を排除するんじゃなくて、全体を配慮することで、教室全体が良くなっていく、

自分自身が良くなっていく、そうした変化のきっかけになりますよね。だとしたら、より良く生きるために

ガンが現われているとも言えるはずです。私もこれまで、たくさんのガン患者さんのヒストリーをたどってきましたが、

そういう「良くなるために存在している」という視点ってとても大事だなと思うんです。

 

たいへん面白い対談ですが、わたしもガンと宣告されてからの生き方が大事だとおもいます。

それまで生きてきた何十年よりも、何十倍、何百倍もの濃縮された正しい心の生き方ができるとおもいます。

私は、ガンになっても手術、抗がん剤、放射線療法は一切受けるつもりはありません。

慈愛に満ちた、飾らない心で、人生の集大成を迎えることができればこれほど幸せなことはないでしょう。

 

なぜイライラする人が増えているのか

2016.04.3

最近では、玄侑宗久さんの次に養老孟司さんの書をよく読んでいます。前述したように養老さんは

東大出の解剖学者とういうだけでなく、氏の考え・教えの根底に仏教の思想があるから、私は好きです。

今回、氏の「超バカの壁」の中から抜粋させていただきました。

 

脳の特性とは関係なくイライラしている場合は、自分の問題に戻さないで、完全に人のせいにしているのが

原因です。

人のせいにする傾向は都会になると強くなります。それで訴訟が多くなるのです。田舎ならば道を歩いていて

石につまずいて転んだ場合、注意が足りないと怒られるのが関の山でした。これが銀座だったらこんなところに

石を置きやがって、訴えてやるとなる。その違いです。

都会には人の作ったものしか置いてないから、何か不愉快なことが起これば他人のせいだというふうに

なり得る。阪神淡路大震災で人のせいにできないことが「心の傷」になったのもまさにそういうことです。

石につまずいて転んでも自然のことだから仕方ないとあきらめられたら楽なのに、あきらめなくなった。

あきらめなくなったから、歳をとっても引退しない。いつまでも現役でいたいとあほなことを考える人が

増えました。昔の人は名誉職などをニコニコしてやっていたものです。

 

昨今というより昔から、人間には他人のせいにするという悪しき習性があります。楽ですからね~

でもそれでは全く成長しない。

わたしの座右の銘は「いいことはおかげさん、悪いことは身から出たさび」、そのように考えるよう努力

しています。

手術は私がするけれども、いやすのは神だ。

2016.03.14

これは、アンブロワーズ・パレというフランスの有名な外科医の言葉です。

悪いことろを手術した後、治っていくのは患者さんの身体の生命力という意味だとおもいます。

眼科領域で、よく行われている白内障の手術においても、完璧に手術ができていても

後で合併症が出て、見えなくなることもあります。

確かに手術をするのは私たちですが、あとの経過は神の領域なのです。

いい経過が得られるようにわたしは、手術の前日には必ずお経を唱え、身心を整え、真摯に

手術に立ち向かうよう心掛けています。

 

セリエの遺言

2016.02.24

養老孟司さんは、東大医学部出の昆虫好きな作家として、皆さんよく御存じだとおもいます。

私も大好きでよく書を読ませていただくのですが、養老先生はただ東大出の解剖学者であるだけでなく

書および考え方の根底に仏教の思想が流れているところがわたしは好きです。

今日は養老先生著の「かえがえのないもの」から抜粋させていただきました。

 

子どもの将来を考えるときは、世の中にあまり合わせないほうがよいのです。大学の教師がよく言っている

ことですが、就職が典型的な例で、若い人に選ばせると、そのときに景気のいい企業に入りだがります。

私が学生のころもそうでした。しかし当時は景気のよかった会社も、今ではどうしようもなく不景気なのです。

40年、50年先など読めません。

いちばんいいのは、どういう時代になっても人間のすることを考えてみることです。これなら大体わかる。

何がつぶれて何がつぶれないか、つまり流行とは何かということが何となくわかってくるはずです。

私自身何となく知っていたことですが、要するに「身についたものだけが財産だ」ということです。

私の母は極端な人でしたが、そのことを私が医者になる前に話してくれました。ハンス・セリエというオーストリア

生まれの医者がいます。ストレス、ストレス症候群という言葉はセリエがつくったものです。

この人はウィーン生まれで、お父さんがオーストリアの貴族でした。しかし第一次世界大戦が起こって

オーストリア・ハンガリー帝国が分解してしまいます。今の小さなオーストリアになってしまった。セリエの

お父さんは、先祖代々持っていた財産を失いました。亡くなるときに息子に言った言葉が、「財産というのは

自分の身についたものだけだ」です。それはお金でもないし、先祖代々の土地でもない。戦争があればなくなってしまう。

しかし、もし財産というものがあるとしたら、それはお墓にもっていけるものだ、と。

お墓に持っていけるものというのは自分の身についたものです。家ももっていけませんし、土地もお金も

持っていけません。自分の身についた技術は墓に持っていける、だからそれが自分の財産だというのです。

かけがえのない経験、かけがえのない財産と言われるものです。

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