お葬式の意義

お葬式の意義

2017.09.30

今回は玄侑さんと、宗教哲学者で京大こころの未来研究センター教授の鎌田東二氏の対談

「原子力と宗教」の中から抜粋させていただきました。

 

玄侑:被災地のお寺はどこも本当にたいへんでしたよ。お葬式のできない状態になってしまっている

お寺さんもたくさんありました。ただ、ここでもヨコのつながりがものすごく発揮されました。

全国あちこちから手助けがありました。

喪の仕事だけでなく、「作務」的な活動もいろいろ行われた。瓦礫の片付けに道場ごと雲水を

差し向けるといったところもありました。

福島県の場合は、原発からの避難ということがあって、震災後も混乱が続きました。「うちの和尚さん

は今どこにいるんだろう?」ということがわからなくなってしまったところもありました。県の宗教者

連合会によってやっと被災地エリアの和尚さん方の連絡先リストが作成され、今はそこに問い合わせれば

一応全部わかるようになってきましたが。

鎌田:なるほど。さまざまなヨコの連携があった。宗旨宗派を問わず、合同で鎮魂供養して祈りを捧げようと

する動きもありました。

ここ二、三年くらい、「無縁社会」ということがあちこちで言われてきました。「孤族」というような言葉も

出てきました。「葬式は要らない」といった考え方の葬送の簡略化風潮が高まって、都市部においてはそういう

ものに共感する人たちも出てきた。しかし、今回見ていると、日本人の埋葬方法や弔いへの思いは依然として

強いものがあると思いましたね。とくに東北のように人々が土地に根付いているところだったということも

あるでしょうが。

玄侑:こういう事態になってみて、お葬式は要らないなどという話は吹っ飛んだのではないかと私は思います。

葬式というのは、別に死者の生前の功績を称えたり、周囲の人に対する見栄でやったりするものではない。

生き残った者が死者を丁寧に送り出すことによって、明日に向かっていくためのステップにもなる。

あらためてそういうことを感じられた方が多いのではないかと思うのです。

鎌田:葬送儀礼、死者儀礼への見直しがある、と。

玄侑:もちろんすべてがそうだというわけではありませんが。ただ、儀式というものをやることで、生き残った

人たちは心に少しずつけじめがつけられるということがあります。その人の死を受け容れていくことができる。

行方不明になったままというのがなぜ辛いかと言えば、あきらめるべきなのかどうか心が定まらないからです。

仏教にしても、神道にしても、キリスト教にしても、死後の節目節目に儀式をやるのは、もちろん死者の鎮魂供養

もありますが、生きている側が死者を受容するためのプロセスでもあるのだと思います。

そういう意味で、葬式も何もやらないというのは、生きている人間にとって非常に中途半端なことに

なるのではないでしょうか。

「死にたい」という私 「生きたい」という全身

2017.08.31

「生と死」の21世紀宣言の中の、「相補性」で命を考える、という玄侑さんの講演から

抜粋させていただきました。

 

人間が生まれて、小さな子供のころは、脳の中もまだニューロンにサヤが付いておりません。

言ってみれば、裸の銅線が頭の中にいっぱい入っているような状態です。もうすぐに漏電します。

漏電するということは、ものすごいスピードで一気に伝わるということです。ですから、「この

おっちゃんが良い人かどうか」というのは、彼らは瞬時に判断しています。子供には口で何を

言っても誤魔化せないというところがあります。私は子供に選挙権を持たせたらどうかと思うのです。

口で誤魔化される、大人だけが選挙権を持っていますからね。

しかしそういう子供も、だんだんと育ってサヤができてきます。ニューロンにサヤができて、電流が

一方通行になってきます。完成するのは今の学説ですと大体14歳くらいと言われています。これが完全に

サヤで覆われてしまうと電流が一方通行しますから、論理が使えるようになり、計算も正確にできるように

なると言われています。けれども、同時に、直観力を失うのではないかと考えられます。それがいわゆる

大人というものであります。論理で考えるしかなくなるのです。直観でわからなくなりますから。だから、

立派そうなことを言ってると、立派だと思うようになってしまうわけです。

子供はだまされません。犬もだまされません。猫もいちばん、だまされません。ところが人間は

そうやって物心がついて、知恵づいて、「私」というのがだんだんできあがってくると、この「私」が

判断するわけです。「私」が「死にたい」などと思うわけです。「死にたい」と思っているのは「私」

だけ、この「前頭葉に住んでいる私」だけです。右手などは「死にたい」とは思っていない。左足も

元氣。そういう状態で「死にたい」と思ったところだけが、全身を道連れにして死のうと思う。だから

もがくのです。それほど「死にたい」なら大人しく沈めば良いのに、水に入った途端に前頭葉の支配は

崩れますから、全身「生きたい」という状態になってしまうわけです。

 

わたしも、仕事も卒業できて、ある年齢になったら、ニューロンのサヤがはずれて、子供のときのような

生活ができることを楽しみに待っております。

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