耳順(じじゅん)

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耳順(じじゅん)

2017.03.18

孔子先生は五十で天命を知って、六十で「耳順」と仰いました。

私もあと2年で耳順の年齢になりますが、果たしてあと2年で、どんな意見にも

「ああ、なるほど」と言って理解でき、腹もたたないでおれるのだろうか?

耳順を実践するためには、やはり「謙虚」でないといけないと思う。

人間の美学は「謙虚さ」である、と仰っている先人も多いです。

人間の争い、政治の世界での不正・嘘、すべて謙虚さの無さから発生しているとおもいます。

これまでの経験から耳順・謙虚であることは非常に難しいことだとおもいます。

子供の頃は、「人間は右肩上がりに成長していく。」とおもっていましたが、

現実は全く違います。むしろ反対のような気がします。私も含めそういう大人が多いです。

少しでも耳順・謙虚に近づけるよう、努力していきたいとおもっております。

 

人智の及ばないもの・・

2017.02.23

今日も玄侑さんの「まわりみち極楽論」から抜粋させていただきました。

わたしは玄侑さんの書を座右に置いていますが、玄侑さんのお考えはわたしの生きる道しるべ

になっています。

 

二十世紀初頭に活躍したアインシュタインはこの世界を考えるパラダイム(軌範)を変更させるほどの

業績を残しました。そのバリバリの科学者である彼が、「神はいるとおもいますか?」と訊かれて、次の

ように答えています。「この世のなかをつぶさに見て、これほどの調和が、なにか計り知れない偉大な存在

なしに実現しているとは思えない」って。しかし彼ら物理学者たちは、ゴッドという表現を避けて、

Something Greatと言っています。まあ「この偉大なる何者か」を、人によって地域によって、神と呼び、

仏と呼んでいると思っていいと思います。あるいは老子の「タオ」も荘子の「混沌」や「真」もそうでしょう。

仏教ではこうしたものを全部含めて「仮名(けみょう)」と呼んでいます。

本当のところ、言葉で言い表せない存在だという認識があるわけです。しかし存在というのは表現されないことには

意識化できないですから、多少感じは違ってくるにしても皆それぞれに工夫して表現したわけですね。

「これほどの調和」と物理学者が言う内容は、私たちは詳しく知ることができませんが、例えば簡単なことで言えば

雪の結晶がどうして全て六角形になるのかも人間にはまだ説明ができないわけです。まあどんなに複雑な結晶を

作っても、そこに生命を吹き込むことができない、というのも勿論そうです。

宇宙に行ってきた人々もそうですが、むしろ最先端の科学を学んだ人ほど、人智の及ばない世界に触れる

ことになる。

 

ドイツかオランダの有名な外科医のこのような言葉も有名です。「手術はわたしがする、しかし癒すのは神だ。」

私も30数年医者をやっていますが、やればやるほどこの言葉の重みを痛感いたします。

 

 

「本来の自己」に戻るための物語としてのお正月

2017.01.1

年の初めはやっぱり我が玄侑さんです。

「お坊さんだって悩んでる」の中から抜粋させていただきました。

 

本来、お正月は「修正会」と呼ばれます。つまり正しい月ではなく、修正する月なのです。

一年の間に歪んだり捻じれたりした部分を元に戻す、というわけですが、ここで重要なのは

元々の状態がよほど良いものと考えられていることです。

大袈裟に言うと、「本来の自己」に戻る、ということですが、修正してニュートラルに戻る

ことがめでたいということは、「本来の自己」がよっぽど素晴らしいということです。

世の中には人間は原罪を背負って生まれたのだからそのままでは信用できない、と考える

宗教もあるわけですから、「本来の自己」が素晴らしいというのも、べつに確たる証拠が

あるわけではありません。ただ、そう信じる、ということです。

素晴らしいと信じる自己に戻る、というので「愛でたい」わけですが、それはいわば物語だと

云えるでしょう。

なあんだ物語なら関係ないや、と思われるかもしれませんが、私たちの人生は幾つものそうした

物語に支えられているのではないでしょうか。とくに死者との別離においては、葬儀や埋葬の

儀式がこのように行われることが「成仏」につながるのだ、という物語を執行しているに過ぎず

それは証明しようのない物語としての納得を提供しているに過ぎません。しかし、そこでは、手続きに

込められた真心によって、明らかに我々の心は新しいステージに運ばれるのです。

そう、お正月がめでたいというのも物語であり、しかもそこにはめでたく感じるための手続きが

必要です。

年末の大掃除は重要な手続きでしょう。女性にとってはお節料理を作る作業も重要かもしれません。

掃除もせず,お節もスーパーから届くというのでは、めでたさも中くらいなり、までも行かないでしょう。

めでたさの分量は、おそらく準備の手間暇に比例するのだと思います。

最近はなくなってしまいましたが、日本には古来さまざまな通過儀礼がありました。七五三、元服なども

スムーズに男の子や女の子になり、それから大人の男や女になるための、智慧深い儀式だったと云える

でしょう。べつに昨日とたいして違うわけじゃない。しかし、「その気」になり今日からは違うと思う

ことで、人はスムーズにそのように変化できたのだと思います。元服して新しい名前を貰うことは、ある種の

生まれ変わりかもしれません。

要は一生というサイクルのなかでそうした通過儀礼を経るのと同じように、一年に一度、生まれ直しをするのが

正月なのです。しかもそれはよく知らない「本来の自己」への回帰という形です。

「息の発見」より

2016.10.27

今月は、五木寛之さんと玄侑さんの対談の書「息の発見」より抜粋させていただきました。

考えてみますと、読経・坐禅・瞑想において大切なのは息の使い方ですし、我々の日常生活においても

大事なときには息を整えます。皆様にも是非読んでいただきたい書です。

 

五木:私は、この六十年間、日本人は物質的恍惚状態を追いもとめるあまり、息というものに対して

あまりにも無関心になってしまったと思っているんです。その揺りもどしのように、いま呼吸法が

ブームですね。そうするとこんどは呼吸法というものを、たとえばスポーツセンターに行ってトレーナー

の指導を受けて、どっちかの上腕の筋肉をふやすとか、下半身を強化するといったような、アスレチック

トレーニングかなにかのように考えてしまう。

でも私は、「息の発見」というのは、身体的技法の発見ではない。そうではなくて、息をすることは、

こんなに嬉しいことだったのか、という実感をとりもどすこと、いのちへの気づきだと思っているんです。

たとえば、いのちにとって、吐く息が大事なのか、吸う息がだいじなのか。あるいは人は死ぬときに

息を吐いて死ぬのか、吸って死ぬのか、こういうことを考えるだけでも、発想の大転換だと思うんですね。

玄侑:瞑想も、いのちへの気づきといえますね。

五木:瞑想というのは、いちばん簡単にいうと、だれでも息をしている。だれでも無意識に呼吸している。

それを意識して、さらにそれを意識しないようにする、という作業なんですね、考えてみると。

玄侑:意識した上で、忘れるんですね。意識しないと方向性が出ません。でも最終的には、それを

忘れるほど三昧にならなくてはいけない。

五木:そういうことなんでしょうね。

玄侑:おそらくそれは、東洋思想にある程度共通した流れなんだと思いますね。混沌が二つに分かれ、

さらに細分化してできあがった分別を、こんどは「不二」とか「無」にもどそうとする。

坐禅もそうですけど、なんでこんな不自然なことをするの?と思うことがありますけれど、それは

自然になるためだよ、ということになるわけです。自然になるのに、不自然なことをやらなければ

ならないのが、たぶん人間なんだと思いますね。

不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ

2016.09.19

今日も玄侑さんの「荘子」より抜粋させていただきました。

 

これはまさに、未来を憂えない生活の指針だと言えるでしょう。道徳を掲げ、一定の目標を

現実に引き寄せようともがくのではなく、とりあえず現実を容認し、それに順応していく。

荘子に言わせれば、予測とはまさに人為であり、人を不自由にするものです。むしろ不測に

立ち、何も予測せず無心でいることが一番強いのです。

このことが最もはっきりと分かるのが武道の世界です。柔道でも剣道でも、試合で相手と

対峙した時、相手がどんな動きをするかシミュレーションするよりも、無心でいるほうが強い。

予測と違った動きをされた時の反応の遅れは致命的です。何も考えていないというのが、最も

速やかに対応できる状態であり、それが強さになるわけです。

「不測に立ちて無有に遊ぶ」。荘子によると明王はこれで国を治めたと言いますが、もちろん

実際の政治においてはありえない考え方でしょう。政治の仕事とは予算を立ててそれを執行する

ことです。予算を立てるということは、まだ起きていないことを予測し、実現の計画を

立てるわけです。そこで、「不測に立ちて無有に遊ぶ」を実践することは難しい。ただ、

個人においては、考えてみる価値は充分にあるのではないでしょうか。今の日本では、

仕事でも家族のスケジュールでも、誰もが計画を立てすぎているように感じることが

あります。いろいろなことがあまりにも細かく決まっているため、氣で感じるとか、直観に

導かれるといった機会がないのではないでしょうか。

「無有に遊ぶ」に込められた意味は、未来はここにはないのだから、「ないという今を遊ぶ」

ということです。多くの人は、今日やるべきことが終わると、明日やることをつい引き寄せて

しまいます。「明日できることは今日やらない」という強い信念がないと、人間は深くは

休めない。「無有に遊ぶ」とは、忙しい現代の私たちにとっても優れて大事な教えなのです。

死んだら「私」はどうなるの?

2016.08.31

今日は玄侑さんの著「やがて死ぬけしき」から抜粋させていただきました。

 

死後、私というまとまりははたしてあるのだろうか。これはたいへん意見が分かれる点です。

死後のあれこれの中で、このことがいちばん気になるという方も多いのではないかと思います。

これについて、かって柳田國男と折口信夫のあいだに大論争がありました。柳田國男は死後も

個人というまとまりを保っていると考えました。しかし折口信夫はどちらかというと老荘思想

に近い考え方ですが、死後は集団化・集合化する、個性というまとまりはもたない、と

考えました。このへんの考え方の違いで死後のいろいろな見方が生まれてくるのだと思います。

私としては、「私」というまとまりのまま死後にも存在するのだとしたら、成仏していないのではないか

と見ます。成仏、つまり「仏に成る」わけですが、「ほとけ」という和語じたいが「ほどける」に

由来すると思われます。神は結ぶもの、発生するというのは結ぶということです。結んだものは

ほどけます。そうすると、いったんほどけてから集合体になるという考え方のほうが自然な

ような気もします。あるいはほどけてエッセンスに分かれる、というのもアリかもしれません。

しかし一方で、死んだあとまで個性を保っていてほしいという考え方が生まれるのもわかります。

柳田國男にすれば、人は死んでも浄土のような遠い場所に行ってしまうのはなくて、あくまで

「あの人」のまま、そのあたりにうろうろしているのですね。それが民衆の感情に近いという

わけです。

一方の折口信夫の考え方は、むしろ民衆の感情の先にある宗教的認識のようにも思えます。

たとえば沖縄のニライカナイのような場所での在り方を追求した結果ではないでしょうか。死んでから

行く場所は、生まれる前にいた場所にも思えます。

 

皆様も死後の世界を考えたことはおありだとおもいますが、宇宙の果てを想像するよりも

死後の世界は難しいようです。

日本人は無宗教と言われていますが、葬式や法事はせっせとやります。ということはとりもなおさず

魂の存在を信じているからなのでしょう。そして日本は例外を除き、火葬です。ということは

死んだら魂は身体からはなれているので身体はもういらないということでしょう。

この状況からするとインドの輪廻思想が一番正しいのかもしれませんね。ただその魂の乗っかかり方が

問題で柳田國男さんのような「まとまり」で乗っかかるのか、玄侑さんが仰るようにエッセンスに

分かれて乗っかかるのか、それはわたしにも想像がつきません・・

薫風

2016.07.29

玄侑さんの「四季の公案」の中から抜粋させていただきました。

 

私たちは、目標を次々に設定して、それが叶ったときこそが幸せだと思っています。けれども

、願いなきことーこれが、最高の幸せではないかと思います。何か目標をもっていると、人は

熱くなるんです。「ねばならない」ということが多いと、蒸し暑いし風通しがよくない。

見る目が何色かに染まっていると、ものがちゃんと見えてこない。目標に向かって燃えていると、

極端に自分の都合によってものを見ているので、いい出会いのご縁がいただけないんです。

願いをもたず、いつもニュートラルな状態であれば、どんな出会いもちゃんと向き合う

ことができ、そこから何かが生まれていきます。ある意味で「願い」というのは、頭で

考える人為的な思惑なんですよ。「願い」をもつと、「こうであってほしい」という

前提条件を抱えることになるわけです。

そうなると、さっと応じられない。自然現象がくれるいろんなチャンスを逸してしまう。

荷物を大切に抱え込んでいるとき、上から柿の実が落ちてきたとするじゃないですか。

荷物を抱えているから、パッパッと掴めないし避けられない。ぼこぼこにぶつかってしまう。

後生大事に抱えているものが、対応力をいちじるしく落としてしまうんですね。

そもそも、自分の思惑なんてたいしたことはない。思惑通りにしか物事が運ばないという

ことほど、面白くないものはない。

人生は、思惑を超えたことが起こるから面白いんです。そこから、思わぬご縁がいただける

のです。だから、風のほうに合わせればいい。「風まかせ」「のらりくらり」が最も

素晴らしい。

そうすれば、思わぬ突風や逆風がやってきても、それもすべて薫風と受けとることが

できるはずですよ。

老いによる喪失は、逃れようのない自然

2016.06.30

今月も我が玄侑さんの著「ないがままで生きる」より抜粋させていtだきました。

 

禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師」と呼ぶ。なかには二十代、三十代からそう

呼ばれる人もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」である。

なにゆえここに「老」という文字を使うのか、考えてみよう。

仏教は人生上の苦しみを、「生・老・病・死」と分類した。生まれること、老いること

病むこと、死ぬことである。

一方、人だけでないあらゆる物の発生から死滅までの変化は、「成・住・壊・空」と

表現される。発生、継続、喪失、そして空っぽ、ということになるだろうか。

ところで「老」とは、後者の区分では「住」に当たり、生き続けている状態のことである。

生き続けていると、いろんなことが起こるわけだが、「老」は単独では意識しにくい。

昔から、老人の年齢規定は、五十五歳、六十歳、六十五歳と恣意的に変更されてきた。

つまり年齢そのもので「老」は定義できず、大抵は、「病」や「死」を垣間見ることで

ついでのように「老」が意識される。ある種の喪失体験として「老」は認識される、

と考えたほうがいいだろう。

 

目はかすむ 耳に蝉鳴く 歯は落ちる 雪を戴く 老の暮哉

 

ずいぶんひどい歌だが、事実だから仕方がない。

要するに人は、若い頃に獲得してきたものを「老」とともにどんどん喪失していく。

それは逃れようのない「自然」である。

なぜイライラする人が増えているのか

2016.04.3

最近では、玄侑宗久さんの次に養老孟司さんの書をよく読んでいます。前述したように養老さんは

東大出の解剖学者とういうだけでなく、氏の考え・教えの根底に仏教の思想があるから、私は好きです。

今回、氏の「超バカの壁」の中から抜粋させていただきました。

 

脳の特性とは関係なくイライラしている場合は、自分の問題に戻さないで、完全に人のせいにしているのが

原因です。

人のせいにする傾向は都会になると強くなります。それで訴訟が多くなるのです。田舎ならば道を歩いていて

石につまずいて転んだ場合、注意が足りないと怒られるのが関の山でした。これが銀座だったらこんなところに

石を置きやがって、訴えてやるとなる。その違いです。

都会には人の作ったものしか置いてないから、何か不愉快なことが起これば他人のせいだというふうに

なり得る。阪神淡路大震災で人のせいにできないことが「心の傷」になったのもまさにそういうことです。

石につまずいて転んでも自然のことだから仕方ないとあきらめられたら楽なのに、あきらめなくなった。

あきらめなくなったから、歳をとっても引退しない。いつまでも現役でいたいとあほなことを考える人が

増えました。昔の人は名誉職などをニコニコしてやっていたものです。

 

昨今というより昔から、人間には他人のせいにするという悪しき習性があります。楽ですからね~

でもそれでは全く成長しない。

わたしの座右の銘は「いいことはおかげさん、悪いことは身から出たさび」、そのように考えるよう努力

しています。

手術は私がするけれども、いやすのは神だ。

2016.03.14

これは、アンブロワーズ・パレというフランスの有名な外科医の言葉です。

悪いことろを手術した後、治っていくのは患者さんの身体の生命力という意味だとおもいます。

眼科領域で、よく行われている白内障の手術においても、完璧に手術ができていても

後で合併症が出て、見えなくなることもあります。

確かに手術をするのは私たちですが、あとの経過は神の領域なのです。

いい経過が得られるようにわたしは、手術の前日には必ずお経を唱え、身心を整え、真摯に

手術に立ち向かうよう心掛けています。

 

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