枯れる

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枯れる

2013.11.6

人間に置き換えても、若いときは、わが身の欲望に振り回されることが多いでしょう。

それは夏の鬱蒼とした木のようなもので、枝が伸びて葉っぱが繁って収拾しきれなく

なってしまう状態です。それで鬱になったりもするわけです。「鬱」という字はもともと植物が

繁茂している状態のことです。

今まで邪魔にしてきたものさえ驚くばかりの美しさを見せるようになるのは

秋になって余計なものをだんだん捨ててわが身を使いこなせるようになるからでは

ないでしょうか。

だんだん枯れていくことをよしとする価値観が今、見当たらなくなりつつあります。

それでは紅葉しないんですね。変化しない造花と同じです。

私たちにとってほんとうに身についているものとは、葉っぱが散って残る木の

幹や枝のようなものです。つまり、葉っぱが枯れて幹だけになってもいいわけです。

それが、晩年の人間の姿じゃないでしょうか。

 

玄侑先生はこのように仰っています。

私も同感です。今はやりのアンチエイジングや不老長寿ということには

全く価値観を覚えません。

歳相応に枯れて死んでいく、これほど美しいものはないと、思います。

願いなきことーこれが幸せ

2013.10.28

またまた玄侑先生のお言葉をお借りしました。

 

禅では「無事」といいますが、その意味は自分の外に何も求めることがなくなった状態です。

何かを目指していないのです。

私たちは、目標を次々に設定して、それが叶ったときこそが幸せだと思っています。けれども

、願いなきことーこれが、最高の幸せではないかと思います。何か目標をもっていると、人は

熱くなるんです。「ねばならない」ということが多いと蒸し暑いし風通しがよくない。

見る目が何色かに染まっていると、ものがちゃんと見えてこない。目標に向かって

燃えていると、極端に自分の都合によってものを見ているので、いい出会いのご縁が

いただけないんです。

願いをもたず、いつもニュートラルな状態であれば、どんな出会いともちゃん向き合うことができ

、そこから何かが生まれていきます。ある意味で「願い」というのは、頭で考える人為的な

思惑なんですよ。「願い」を持つと、「こうであってほしい」という前提条件を抱えることになるわけです。

 

邪気

2013.10.25

尊敬する玄侑先生の書より。

 

我々の中にある「邪気」と呼ばれるものは何かというと、たとえば癌細胞などがそうですね。

西洋医学では、邪気に対しては邪気で対抗しようとするので、切除したり放射線や薬で

やっつけようとします。

しかし、よく考えてみれば、癌細胞といってももともとは自分自身の一部なわけです。

要は言うことをきかなくなった細胞ですね。はたしてそれを抹殺していいものでしょうか。

 

邪気に対して無邪気で向き合うというのは、「邪気」を悪いものだと固定的にみないからです。

いまここでは、邪気として現れているだけのことと解するわけです。仏教は、

固定的な見方をせず、すべてのものを関係性のなかでみます。邪気なものでも

、それを固定的な存在としてみません。たまたま今の自分に対して悪として現れてきた

流動的な「出来事」としてとらえるのです。

雪さえ寒いと思わず、涼しいと感じる余裕

2013.10.23

玄侑さんの「四季の公案」より。

 

冬に雪が降ると寒い寒いと言うわけですが、その言葉が寒さを固定

してしまうんですね。それで感覚としてはさらに寒くなってしまいます。

そのことを道元禅師はよくわかっていて、次のような和歌を詠んでいます。

 

春は花夏ほととぎす秋は月

冬雪さえてすずしかりけり

 

雪の季節を「寒い」ではなく「すずしい」と表現していますね。

これはつまり、道元禅師は雪を愛でているわけです。雪だけではなく

、春夏秋冬、どの季節もいいじゃないかとすべてを愛でています。

季節の移ろいに応じて自然のままに生きたい。そういった覚悟が

あればこその言葉だと思いますね。

老年の仕事

2013.10.12

尊敬する作家、曽野綾子さんの書より。

 

一口で言えば、老年の仕事はこの孤独に耐えることだ。

逃げる方法はないのである。徹底してこれに耐え、

孤独だけがもたらす時間の中で、雄大な人生の意味を

総括的に見つけて現世を去るべきなのである。

これは辛くはあっても明快な目的を持ち、それなりに

勇気の要る仕事でもある。

とにかく難しい・・

2013.09.19

今、南直哉さんの「正法眼蔵」の解説本をよんでいます。

半分ぐらい読みましたが、予想通り難しいです。

道元禅師もすごいですが、禅師の教えをここまで解釈する

南僧もすごいです。

私なりに解釈すると、つまるところ

修行→悟り→無常でしょうか?

現在、ここまで仏教を理解して営業しているお坊さんは

はたして何人おられるでしょうか?

死語ですが、かって聖職といわれた僧侶、教師、医者

現在、自他ともに、とても聖職なんて呼べないことは自明ですが

特に人間の魂の領域を左右するお坊さんにはしっかり

勉強していただきたいものです・・。

南さんのすごいところは、仏陀の本当の教えを記したものが

ないので、仏陀と同じ生き方をして、仏陀の教えたかったことを

体得するつもりでおられる。

僧侶、教師、医師はこれぐらいの気概をもって、やってもらいたい

ものです。

 

仏教における応病与薬

2013.09.12

今日も尊敬するM僧とA氏の対談から。

 

M僧:ところが困ったことに、一対一の対話で言葉を発するという訓練が伝統教団

にはないんだよ。伝統仏教と檀家との関係は、これまでお葬式と法事がすべてだった。

法話も、故人の親族一同を前にして説教するという枠組みになっている。要は

個人が相手ではなく「家」が相手。その「家」も、たいがいどこも似たり寄ったり

だったので、「家」に応じて話の中身を変える必要なんてなかったんだ。

A氏:なるほど。十把ひとからげでは「応病与薬」とはいえないな。

m僧:ああ。ひとりひとりの症状や病の重さにあわせて薬を調合しなくてはいけない。

自殺というアポリア

2013.09.4

今日も尊敬するM僧とAさんの対談より抜粋しました。

 

M僧:ただ、私にとって最大の難関は、信仰ではなく、「自殺」の問題だった。

だって、一発必殺のカードじゃないか。困難のすべてを解決する。これをなぜ

捨てる必要があるのか。なぜ自殺してはいけないのか。実際、私もひとりの僧侶として

何人もの自殺志願者の話を聞いてきたんだ。彼らは自殺について、とことん考えている。

とうてい理屈で説得して翻意させることなんかできないね。

そもそも私自身が「どうせ死ぬのになぜ生きなくてはならないのか」とくりかえし

考えてきた人間だよ。彼らの言うことは身に沁みてわかる。それほど苦しいならば

「死ぬ」という選択肢があってもいいのではないか。そう考えるのも当然だと思う。

Aさん:にもかかわらず、和尚は生きた。

M僧:そうさせたのが、仏陀その人だな。仏陀も私と同じことを感じていたにちがいない。

その仏陀も八十年生きた。この人が何を考えていたのかを私は知りたい。ところが

そこを明晰に言う仏教書がない。だから私自身が仏陀のように生きて確かめるしか

ないと思ったんだ。

Aさん:では、和尚も自殺したいと考えたことがあるわけ?

M僧:いや、私自身は自殺しようと思ったことは一度もない。そうではなく、なぜ

人間に自殺という選択肢が与えられているかに悩んだんだ。

人類滅亡?

2013.08.29

今日も南さんとA氏の対談から抜粋しました。

 

M僧:小林和之という法学者の「未来は値するかー滅亡へのストラテジー」

という論文を読んだことがある。そこには一種の「解決としての滅亡」という

考え方があった。小林氏は人類全体を安楽死させる施策を提言している。

これは凄い話。だが、発想としてでてくるのはわかる。

環境保護というのなら環境を破壊する人間がいなくなればいい。安楽死を

認めるなら人類ごと安楽死させる方法もあっていい。

その論文の提言では、子どもをひとり生むごとに途方もない税金をかける。

八十歳いじょう生きると、また税金をかける。そうして集めた莫大な税金を

、みんなを平等に安楽死させるほうに使えばいい、という。ね、凄いだろう。

A氏:人類はきれいに消滅するかもね。

M僧:感覚的にいえば、こんな施策は倒錯しているだろう。しかし論理の

問題として、「なぜいけないんだ」と問われると。自殺の問題と同じで

いけないという理由が見つからない。私がいつもじさつの問題で悩むのは

苦しいなら存在しなくなればいいのではないか、ということだ。

なぜいけないのか。

仏教はどう考えても、人間であることや人類が存続することを、無条件で

いいという考えではない。「成仏」とはある意味「人間でなくなる」こと。

要は「人間」はダメなのだ。けっして人間であることを全面的に肯定する

思想ではない。少数派になるのも当然だろう。

A氏:いや、しかし、この思想は強いだろうね。なぜといって、「では、

答えてみろ。なぜ人は生きつづけなきゃいけないのか。なぜ人類は存続

させなくてはいけないのか」と詰め寄られたら、たぶん誰もまともに

答えられない。

どの業界も同じ

2013.08.27

私が、日本のお坊さんで玄侑さんと並んで最も頭のいいお坊さんと思う

南直哉さんと評論家Aさんの対話から抜粋しました。

 

M僧:現実には教団内の地位でさえ、修行の深さやら仏法の探求やらで

決まるわけではない。教団の要職を務めたとか長年保護司を務めたなどと

いった、いわば世俗的な経歴で決まることが多い。どの教団もほとんど同じ

だと思う。そういう選択基準もあながち否定する気はないが、決定的な

問題は、どの宗派もどういう僧侶を理想とするかについて、徹底的に

考えていないだろうということ。これは教団の将来にとって、致命的だね。

Aさん:しかし、なぜ?

M僧:私が思うに、結局、社会の人が坊さんに何も求めないからだろう。

一昔前の調査では、とにかくお葬式と法事をきちんとやってくれればいい

という意見が最も多かった。僧侶がそんな世間に甘えた責任も大きい。

しかし一般の人々が仏教や信仰についてまじめに考える時代がなかったのも

大きいのではないか。

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