自然への畏敬

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自然への畏敬

2013.12.3

今日も南僧のお話より抜粋しました。

 

阪神大震災が起こったとき、誰かがテレビで「あってはならないことが・・・」などと口走っていたが

人間の頭であるかないかを決められるようなことは、自然にはない。こんな浅はかなことを言い出す

人間こそが、自然「破壊」や「保護」とかを、都会のど真ん中で安直に喧伝するのであろう。

だいたい自然は「破壊」したり「保護」したりできるものではない。なぜなら、それは自然にとって

どうでもいいことだからである。人間に都合ののよい「環境」は破壊されもしようし保護もされようが、

自然自体にとっては、それらは単に、自らの物質構成に若干の変化が生じただけのことにすぎない。

「破壊」されるわけでもなく、「保護」されるいわれもないのである。

テレビで無邪気なことを言っていた御仁には、自然が持つよそよそしさ、その超越に想像力が

及ばないのだろう。及ばなくなっているのだろう。

なにもエコロジーの運動が無駄だとか、間違っているとか言いたいのではない。そうではなくて

自然が人間の手に余る存在だという、徹底的な自覚がないかぎり、私たちはまっとうな関係を

自然との間につくることはできないし、保護らしい保護もできないだろうと言っているのである。

 

私も、今の人間には「自然を制御」できるという驕りがあると思う。それは動物たちに対しても

同じである。我々はもっと自然や動物たちに対して畏敬の念をもたなくてはならないのでは

ないだろうか。

諸行無常

2013.11.30

尊敬する南僧の言葉より。

 

私たちは選択の自由があって生まれてきたわけではないし、死ぬのに理由を教えてもらえるわけでもない。

それは単なる事実として、無根拠にこの世に炸裂する事実、すまわち「問い」である。

始めと終わりに根拠がないのに、中間にそれがある道理もない。ならば、人生は全体として、

それ自体、無根拠で無意味である。我々は、意味や価値があって生きているのではなく、

生きていることが意味や価値をつくることなのだ。これを称して仏教では、「諸行無常」と言う、

のだと私は思う。

 

こうしなければならないと、最初から決まっていることなど、この世にひとつもない。だが、

しなければならないことを自ら発見できない人生は、おそらく寂しいだろう。

根拠が欠けている人生に向かって、「何故に生きるか」と問うても無駄だ。根拠は

つくり出すものだとするならば、「諸行無常」への問いは「何故に生きるか」である。

不可能であるゆえの誓い

2013.11.24

今日も玄侑さんの言葉の中から。

 

どうして命が大切で、なにゆえ殺生がいけないことなのか、それを理詰めで

教育しようとする風潮が今の世の中にはあるが、おそらくそれは無駄なことなのだ。

理詰めで進める限り、どんな意見にも必ず反対意見がありえるからである。

思えば完全に受け身で産み落とされた我々の命。そのままでは大切にすべき理由は

見当たらない。しかしそんな命を大切なものとして慈しみ育ててくれた人々がいた。

そのことで、感覚的に大切そうな命と感じる人々は多いだろう。

それでも同じような体験を全ての人が共有できる世の中ではないから、今は尚更

誓いこそが大切なのである。

不殺生戒が仏教発生以来ずっと変わらず続いてきたのは、それが結局は遵守不可能で

あるからだ。律儀なドイツ人の仏教会は、不殺生戒だけを除いて仏教を受け容れると宣言

したことがあるらしいが、不殺生戒を字義どおりに受けとめれば無理もないことだ。仏教は

動物も植物も対等の命と認め、家畜などという手前勝手な考え方もしないから、今日一日を

生き延びるためにさえ無数の殺生をしなくてはならない。そのことを自覚して懺悔し、不殺生を

誓いつづけるのである。

ではそれほど実現不可能な戒をどうして立てるのか、不思議に思う方もいるに違いない。

しかしそれはあまりに合理性に慣れすぎた考え方と云えるだろう。実現不可能であるからこそ

、戒は永遠のものとなる。不偸盗戒(盗むな)も不淫戒(交わるな)も不妄語戒(ウソつくな)も、

つきつめれば完璧な成就が不可能であるゆえに永遠の誓いなのではないか。

自分の心次第

2013.11.19

相田みつをさんの語録集より。

 

「しあわせはいつも自分のこころがきめる」

 

お釈迦様も仰っているように、人生は苦の連続ですが

幸と感じるか不幸と感じるかは、自分の心次第だとおもいます。

 

枯れる

2013.11.6

人間に置き換えても、若いときは、わが身の欲望に振り回されることが多いでしょう。

それは夏の鬱蒼とした木のようなもので、枝が伸びて葉っぱが繁って収拾しきれなく

なってしまう状態です。それで鬱になったりもするわけです。「鬱」という字はもともと植物が

繁茂している状態のことです。

今まで邪魔にしてきたものさえ驚くばかりの美しさを見せるようになるのは

秋になって余計なものをだんだん捨ててわが身を使いこなせるようになるからでは

ないでしょうか。

だんだん枯れていくことをよしとする価値観が今、見当たらなくなりつつあります。

それでは紅葉しないんですね。変化しない造花と同じです。

私たちにとってほんとうに身についているものとは、葉っぱが散って残る木の

幹や枝のようなものです。つまり、葉っぱが枯れて幹だけになってもいいわけです。

それが、晩年の人間の姿じゃないでしょうか。

 

玄侑先生はこのように仰っています。

私も同感です。今はやりのアンチエイジングや不老長寿ということには

全く価値観を覚えません。

歳相応に枯れて死んでいく、これほど美しいものはないと、思います。

願いなきことーこれが幸せ

2013.10.28

またまた玄侑先生のお言葉をお借りしました。

 

禅では「無事」といいますが、その意味は自分の外に何も求めることがなくなった状態です。

何かを目指していないのです。

私たちは、目標を次々に設定して、それが叶ったときこそが幸せだと思っています。けれども

、願いなきことーこれが、最高の幸せではないかと思います。何か目標をもっていると、人は

熱くなるんです。「ねばならない」ということが多いと蒸し暑いし風通しがよくない。

見る目が何色かに染まっていると、ものがちゃんと見えてこない。目標に向かって

燃えていると、極端に自分の都合によってものを見ているので、いい出会いのご縁が

いただけないんです。

願いをもたず、いつもニュートラルな状態であれば、どんな出会いともちゃん向き合うことができ

、そこから何かが生まれていきます。ある意味で「願い」というのは、頭で考える人為的な

思惑なんですよ。「願い」を持つと、「こうであってほしい」という前提条件を抱えることになるわけです。

 

邪気

2013.10.25

尊敬する玄侑先生の書より。

 

我々の中にある「邪気」と呼ばれるものは何かというと、たとえば癌細胞などがそうですね。

西洋医学では、邪気に対しては邪気で対抗しようとするので、切除したり放射線や薬で

やっつけようとします。

しかし、よく考えてみれば、癌細胞といってももともとは自分自身の一部なわけです。

要は言うことをきかなくなった細胞ですね。はたしてそれを抹殺していいものでしょうか。

 

邪気に対して無邪気で向き合うというのは、「邪気」を悪いものだと固定的にみないからです。

いまここでは、邪気として現れているだけのことと解するわけです。仏教は、

固定的な見方をせず、すべてのものを関係性のなかでみます。邪気なものでも

、それを固定的な存在としてみません。たまたま今の自分に対して悪として現れてきた

流動的な「出来事」としてとらえるのです。

雪さえ寒いと思わず、涼しいと感じる余裕

2013.10.23

玄侑さんの「四季の公案」より。

 

冬に雪が降ると寒い寒いと言うわけですが、その言葉が寒さを固定

してしまうんですね。それで感覚としてはさらに寒くなってしまいます。

そのことを道元禅師はよくわかっていて、次のような和歌を詠んでいます。

 

春は花夏ほととぎす秋は月

冬雪さえてすずしかりけり

 

雪の季節を「寒い」ではなく「すずしい」と表現していますね。

これはつまり、道元禅師は雪を愛でているわけです。雪だけではなく

、春夏秋冬、どの季節もいいじゃないかとすべてを愛でています。

季節の移ろいに応じて自然のままに生きたい。そういった覚悟が

あればこその言葉だと思いますね。

自分の始末

2013.10.13

引き続き、曽野綾子さんの書「自分の始末」より。

 

「自分の始末」の意図するところは、実はたった一つ、

できるだけあらゆる面で他人に迷惑をかけずに静かに

この世を終わることである。

私たちは一瞬一瞬を生きる他はないのだから、

その一瞬一瞬をどう処理するか、

私はずっと考えてきた。

老年の仕事

2013.10.12

尊敬する作家、曽野綾子さんの書より。

 

一口で言えば、老年の仕事はこの孤独に耐えることだ。

逃げる方法はないのである。徹底してこれに耐え、

孤独だけがもたらす時間の中で、雄大な人生の意味を

総括的に見つけて現世を去るべきなのである。

これは辛くはあっても明快な目的を持ち、それなりに

勇気の要る仕事でもある。

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