「没しょう跡」という生き方
2022.12.27今年最後のコラムになりました。
最後もやはり尊敬する玄侑さんの書から引用させていただきました。
「もつしょうせき」と読みます。
無相大師という方は、我々禅僧の間では「没しょう跡」の禅者としてつとに知られている。しかし
おそらく一般の皆さんの間ではあまり知られていないのではないだろうか。
「没しょう跡」なのだからそれも当然である。「没しょう跡」とは足跡を残さない生き方。語録や
著書などの足跡がないからその人柄も功績も辿りようがない。
足跡を残さないということは、死後ばかりでなく、生きているうちから過去を引き摺らないことでも
ある。禅では過去を引き摺ることを泥亀に喩える。泥だらけの亀は歩いた跡を甲羅の分まで大袈裟に
残す。そんなふうに、自分の過去を人に示してどうなるのかと、考えるのである。
最近はブログなど、自己言及と記録を兼ねたような文章をよく見かける。そして「自分はこういう人だ」
と、知ったようなことを書いているのだが、果たして人間はそれほど解りやすい存在なのだろうか。熱心な
記録や自己言及が、かえって自己を限定し、苦しめてはいないか。
歴史家にはうつ病が多いと云われるが、それも過去に一貫した解釈を求めすぎるせいだと思える。
現代人の多くは、たぶん情報という泥に浸かりすぎたうつ症状の亀なのだろう。
臨済禅師が示されているのは、自信をもって「今」に没頭し、記録や評価を気にしない生き方ではないだろうか。
自信は過去の記録や他人の評価で出来上がるわけではない。「私」を忘れることで自然に立ち上がる。
それこそが「光」ではないか。
以上、玄侑さんが妙心寺展によせて寄稿された書からいただきました。
私はこれは、SNSに頼り過ぎている現代人に対する玄侑さんからの警鐘のように思える、玄侑さん自身も
スマホはもたず緊急の葬儀などに対応するためだけに奥様からガラケーを持たされている、と仰っていた。
私もスマホは持っていない、必要ないし、なくても生活できている。
私の人生も残り少なくなってきましたが、「今に没頭する」ことを座右において仕事、生活するように
心がけたいと思っています。「没しょう跡」も座右に置いておこう。
今年一年このコラムをご覧になって下さり有難う御座いました。感謝いたします。